小谷学の経歴|Biography

1973年ー1986年 幼少期(生誕から小学生まで) 和歌山県海南市|1973-1986 Childhood (from birth to elementary school) Kainan City, Wakayama Prefecture

私自身の歴史ということで このサイトでは紹介したいと思っておりますので 自分自身の 幼少期から現在に至るまで記憶をたどりながら 紹介をしていきたいと思います。

幼少期ということで 私自身は 和歌山県海南市 という人口5万人ほどの小さな町で生まれました。

この町は 和歌山県の北部に位置しております。

和歌山県といえば 県の面積の80%ぐらいが山地であるために 平地が少ないということで知られています。

私の育った 海南市 というのは海にも面しております しちょっと奥に行けば山もあるという海と山が両方 混在している町ということになります。

生まれたのは 海南市でも 山側ということになり 小さい時は歩いて砂浜に行けるようなところはありませんでした。

子供の頃よく見れた景色としては生まれた家があったところが 高台にあったためにその下に 貴志川という川が流れていました。

小さい時は海に海水浴に行く というよりも 川に泳ぎに行ったという記憶の方が多いです。

さて 私の実家というものがどういう風になっているかといえば私の父親というのは 和歌山県庁で働く職員でした。

母親は幼稚園の先生をやった後に農協で仕事をしていたということです。

うちのおばあさんは海南市役所で仕事をしていました。

おじいさんについて言えばこの人は実はあまり知らないのですが 話しに聞けば 戦争時代は職業軍人として 少年兵から 海軍に入り そして海軍で長い間 仕事をしている間に海軍兵学校の教官を務めていたり また特攻にかかる仕事もしていたということは聞いています。

ただ 戦争というものは 人の世界というものを切り裂くということが明確になり 多分 本人は職業軍人で海軍兵学校などでも働いていたということもあり 戻ってくれば GHQ に捕まると思って10年以上 どっかに行って帰ってこなかったそうです。

これは家族の話なのですが 多分 九州の炭鉱かどこかで身を隠しながら働いていたのではないかということもあり うちのおじいさんはあちらこちらと 点々としながら実はあちらこちらと家族を作っていたのでうちの家族は結構 父親のいとこはよくわからない いとこがいます。

ということで ちょっと複雑といえば 複雑です。

私自身はどういう風に育ってきたかと言うと父親は仕事人間でほとんど家にいませんでしたので母親が家にいて あとおばあさんも家にはいましたが あまり みんなの家族の関係はいいといえませんでした。

とはいえ 父親は 割合 仕事人間で真面目に仕事を行っていたので生活に困ることは特にはなかったので子供の頃は何不自由なく育った記憶があります。

それで幼稚園は地元の公立の幼稚園に通いました 。特に何も飾りもないような れんげ組 すみれ組みたいな 普通の幼稚園です。

それでその幼稚園の隣にあった 中野上小学校 という 公立の学校に行きました。

あまり 小さい時の記憶が残っていないのですが我々の時代というのは 段階 ジュニアの時代でしたので 割合 学生の数は多い方でしたが 多分 同級生が70人から 80人ぐらいいたのではないかと思います。

それで2クラスあり 2年に1回ぐらい クラス替えしたのかな そんな記憶があります。

低学年の時の記憶というのが今考えてみれば あまり記憶に残っていないのですが だいたい記憶 残ってるのが 小学校5年生ぐらいからの記憶になります。

その頃はかなり 反抗期の時期も重なって学校の中で先生に反抗していました。

小学校6年の時は結構 ピークで学校崩壊をさせているということで有名人になっていました。

毎日どっかで暴れていましたのであまり 記憶はないのですが ろくでもないな ということを今考えれば思います。

特に悪ガキの集団がありその中でも3人衆 と呼ばれる特に悪いやつがいたのですがその中の中核 メンバーであったことは記憶にしています。

それで小学校6年の時の先生は我々があまりにもいじめすぎたので かわいそうに すぐに転勤になってしまいました 多分これは我々の責任だと思います。

その先生には多分 恨まれているでしょう。

このような幼少期を過ごし 小学生の時はかなり むちゃくちゃをしていましたけども そのまま近くにある近所の公立の中学校に進学しました。

 

小学校の時に行ったスポーツという話を書くのを忘れていたので追記します。

私の育った 和歌山の田舎ではスポーツをする 選択など あまりなかったので 野球部に入るか サッカー部に入るか 2社 選択のような世界でしたので 、私自身 あんまりサッカーには興味なかったので 、当時 阪神タイガースが流行っていましたので 意味もわからず 野球部に入りました。

ちょうど小学校6年だったと思うんですが 阪神タイガースが20数年ぶりに優勝したということで 、当時ものすごく 野球 ブームを生んでいました。

ということで 私自身も 野球部に入ったのですが 私の入った野球部は地元の小学校の野球部ですけど自慢にならないですがめちゃくちゃ弱かったです。

だいたい 地元の小学校が6箇所 ぐらい あったと思うのですが1回戦 勝てるかどうかというところで 、いつも 近所の 亀川 という地域の小学校あるのですが 亀川小学校と中野上小学校が弱さを競う というところで 仲間意識がありました。

ということで 、野球に関しては 青春ドラマのような熱いものはなく 唯一 キャプテンだったキャッチャーの人がいるのですか 彼だけは涙を流していましたが 他の選手は無反応 という やる気のなさでした。

さて、 そういう風な自慢にもならない スポーツ 人生ですが 小学校はそれで終わりです。

 

I would like to introduce my own history on this site, so I would like to introduce it while tracing my memories from my childhood to the present day.

As a child, I was born in Kainan City, Wakayama Prefecture, a small town with a population of about 50,000 people.

This town is located in the northern part of Wakayama Prefecture.

Wakayama Prefecture is known for having very little flat land, as approximately 80% of the prefecture is mountainous.

Kainan City, where I grew up, faces the sea, and if you go a little further you can see the mountains, so it is a town where both the sea and mountains coexist.

Even though I was born in Kainan City, it was on the mountain side, so when I was little there was no place where I could walk to a sandy beach.

The scenery I often saw when I was a child was that the house where I was born was located on a hill, so a river called Kishigawa flowed below it.

When I was little, I have more memories of going swimming in rivers than going swimming in the sea.

Now, regarding my family home, my father was an employee of the Wakayama Prefectural Office.

Her mother worked at an agricultural cooperative after working as a kindergarten teacher.

My grandmother worked at Kainan City Hall.

As for my grandfather, I don't actually know much about him, but from what I've heard, during the war, he joined the Navy as a career soldier as a child soldier, and while working in the Navy for a long time, he served as an instructor at the Naval Academy. I also heard that he also worked on special attacks.

However, it became clear that war tears apart people's worlds, and since she was probably a professional soldier and had worked at the Naval Academy, I thought for 10 years that she would be captured by GHQ if she returned. Apparently he went somewhere else and never came back.

This is a family story, and she said that my grandfather probably worked in a coal mine in Kyushu or somewhere in hiding, and that my grandfather actually started a family here and there. My family has a girlfriend cousin who I don't really know about my father's cousin.

So she's a little complicated.

Personally, how I grew up was that my father was a working man and was rarely at home, so my mother was at home, and my girlfriend and my grandmother were also at home, but she was not really involved in everyone's family. I couldn't say yes.

However, my father was a very hard worker and took his job very seriously, so I didn't really have any trouble making a living, so I remember growing up without any problems as a child.

So I went to a local public kindergarten for kindergarten. She doesn't seem to have any special decorations, she is a normal kindergartener like the Renge group Sumire group.

So I went to a public school called Nakanogami Elementary School, which was next to the kindergarten.

I don't remember much about when I was little, but our time was when we were juniors, so there were a lot of students, but I think there were probably 70 to 80 of my classmates. I think.

So there were two classes, and she changed classes about once every two years, or so she remembers.

When I think about it now, I don't remember much about her when she was in the lower grades, but what she remembers is mostly from about the 5th grade of elementary school.

At that time, I also had a period of rebelliousness, and I rebelled against the teachers at school.

When he was in the 6th grade of elementary school, he reached a peak and became famous for causing the school to collapse.

I don't remember much of her because she was acting wild every day, but now that I think about it, she was a bastard.

There was a group of particularly bad kids, and among them there was a particularly bad guy called the Three People, and I remember that he was a core member of that group.

So when we were in 6th grade, our teacher bullied us too much, so she felt sorry for her and she was transferred right away.I think this is probably our fault.

That teacher probably hates you.

After such a childhood, she was quite unruly when she was in elementary school, but she went on to attend a nearby public junior high school.

 

I forgot to write about the sports I played in elementary school, so I'll add it here.

In the countryside of Wakayama where I grew up, there wasn't much of a choice to play sports, so it was a world where you had two choices: join the baseball club or join the soccer club, so I wasn't really interested in soccer at the time. The Hanshin Tigers were popular, so I joined the baseball club without knowing what it meant.

I think I was in the 6th grade of elementary school, and the Hanshin Tigers had won the championship for the first time in over 20 years, and there was a huge baseball boom at the time.

So I joined the baseball club myself, but the baseball club I joined was at my local elementary school, and I'm not proud of it, but it was extremely weak.

I think there were about six local elementary schools, but when it comes to winning the first round, there's always an elementary school in the neighborhood called Kamegawa, and Kamegawa Elementary School and Nakanokami Elementary School compete to see which ones are the weakest, so there's a sense of camaraderie. there was.

So, when it comes to baseball, there isn't anything hot like a youth drama. Is there a catcher who was the only captain? He was the only one who shed tears, but the other players didn't react, showing his lack of motivation. was.

Now, his sports life is nothing to brag about, but that's the end of elementary school.

1986年ー1989年 中学時代 (和歌山県海南市 東海南中学校)|1986-1989 Junior high school years (Higashi-Hainan Junior High School, Hainan-shi, Wakayama)

中学時代に思い出についてお話ししていきたいと思います。

私自身が中学校は地元の公立中学校 これは東海岸中学校という中学校に通いました。

これは 和歌山県海南市にある田舎の中学校です 隣に川が流れており 自然は豊かでいい感じでしたが それ以外何もないというところです。

私自身は小学校の時は野球部に所属しておりましたが中学校に入って野球は することなく 陸上部に入部しました。

その理由は結構 小学6年生の時から 体格も良かったので 野球部で集団 スポーツをするよりも 個人プレーの方が性格的に向いていると思い 野球部をやめ 投擲という 陸上部でも 砲丸 投げや 円盤投げ というものに全力を注ぐことになりました。

中学1年生の時は結構 先輩に結構地元のやばい人たちがいたので ある意味 当時は ビーバップハイスクールとかヤンキー 全盛期の時代だったのでしょっちゅう学校は荒れていました。

今考えたらあんな中学生っているのかな と思うような 、ろくでもないやつがいっぱい いたような気がします。

ということで 、やはり 北斗の拳のような世界で ケンカに弱かったら生きていけないということで これは体を鍛えるしかないということで 当時は ウエイトトレーニングに凝りました。

一応は陸上部ということで 投てきの選手ということで体を鍛えるということでしたが半ば 地元で喧嘩に負けないために体を鍛えていたということが言えるかもしれません。

私の後輩で睾丸投げの選手がいたのですがその彼は地元でもめちゃくちゃ 喧嘩の強いチ・ン・ピ・ラの人になったやつもいました。

その彼曰く あの時 体鍛えたのが将来役に立ちました 誰にも 喧嘩 負けなくなりましたということを自慢していました。

ちなみに私は陸上部のキャプテンでしたので とりあえず 筋肉 鍛えろということばかりを言っていた 意味不明な キャプテンでした。

陸上マガジン という本があったのですが 、陸上マガジンを読むよりも 途中からボディビル マガジンに見る本を変えていました。

変なやつでしたが 中学校は結構人気者で生徒会長に立候補して、生徒会長になりました。

それで私自身も結構、真面目ではなかったので学校にいる悪い奴らを集めて 体育祭などを イベントを仕切らしたら めちゃくちゃうまくできたので学校の先生から褒めていただきました。

ある意味あれはほとんど 恐怖政治 のような形でしたが、 ああいうやり方は全校生徒 集団行動として 言うことを聞かせるには非常に効果的だったと言えます。

人生における成功体験の一つかもしれません。

そのようなことはあり 結構 むちゃくちゃでしたけども面白く行きました。

学業について言えば 学校では結構 喧嘩をしてあまりよくない生徒でしたけども、成績は 割合 よく、 実際のこと言うと進学塾に週6日ほど通っていたので全国模試とかの試験の結果は良かったです。

中学校の時の記憶としてはやはり 公立の学校でしたので 普通に考えたら 学校単格になることなどありませんから 学生時代は正直 問題児でした。

中学校で感じたのは学校では結構 暴れて 問題児だったのですが 成績 良かったので学校の先生は 何文句言いませんでした。

ある意味 これって大人の差別かと思ったことがあったのですが 学校の先生というものは 成績の悪いやつはお前そういうことをやってるから成績が悪いんだということで怒りますが 悪いことをやったとしても成績が学年で5位までに入っていれば先生はお前は理解できるだろうと言って それ以上は言いませんでした。

こういうことで 結果重視というのが世の中が重要かということに子供の時に学びました。

I would like to talk about my memories from my junior high school days.

I personally attended a local public junior high school called East Coast Junior High School.

This is a junior high school in the countryside in Kainan City, Wakayama Prefecture. There is a river flowing next to it, and the nature is rich and nice, but other than that, he doesn't have much to offer.

When I was in elementary school, I belonged to the baseball club, but when I entered junior high school, I joined the track and field club without playing baseball.

The reason for this is quite a bit from when I was in the 6th grade of elementary school, because I had a good physique, I thought that my personality was better suited for individual play than playing group sports in the baseball club, so I quit the baseball club and started throwing, shot put, and discus in the track and field club. I decided to put all my efforts into this.

When he was in the first year of junior high school, there were quite a few local bad guys among his seniors, so in a sense, he was in the heyday of Be-Bop High School and Yankees, so the school was often rough.

Now that I think about it, I wonder if there are any junior high school students like him, and I feel like he was full of assholes.

So, in a world like Fist of the North Star, he wouldn't be able to survive if he was weak in fights, so he thought that the only way to do this was to train his body, so at that time he focused on weight training.

He was part of the track and field club and was a throwing athlete, so he trained his body, but it could also be said that he trained his body to avoid losing in fights in his hometown.

One of my juniors was a testicle thrower, and even in his hometown, he became one of the most quarrelsome people in the world.

According to him, he was proud of the fact that his physical training back then was useful in the future, as he no longer loses fights to anyone.

By the way, I was the captain of the track and field club, so he was the captain of my boyfriend who always told me to build up my muscles, which made no sense.

There was a book called Athletics Magazine, but I started reading bodybuilding magazines instead of reading athletics magazines.

Although he was a strange person, he was quite popular in junior high school and ran for student council president, becoming student council president.

I wasn't very serious myself, so I gathered together all the bad guys at school and organized events for him, such as the sports festival, and he did really well, so the teacher at school praised him.

In a sense, it was almost like a reign of terror, but I can say that it was very effective in getting the whole school's students to do what they said as a collective action.

It may be one of the successful experiences in your life.

Things like that happened, and it was quite messy, but it was fun.

As for academics, I fought a lot at school and wasn't a very good student, but my grades were pretty good, and to be honest, I went to a cram school about 6 days a week, so my results on national mock exams were good. is.

My recollection of junior high school was that it was a public school, so if you think about it normally, there's no way you'd go to a single school, so to be honest, I was a problem child when I was a student.

In middle school, I felt that I was quite violent and a problem child at school, but my grades were good, so the teachers at school didn't complain about me.

In a sense, I used to think that this was discrimination by adults, but teachers at school get angry and say that those who get bad grades are doing the same thing and that's why they get bad grades. Even if you did, the teacher said that as long as you were in the top 5 in your grade, you would understand, and didn't say anything else.

As a child, I learned that being result-oriented is important in this world.

1989年-1992年 高校時代 和歌山県和歌山市 近畿大学付属和歌山高等学校|1989-1992 High School: Wakayama High School attached to Kinki University, Wakayama City, Wakayama Prefecture

さて 高校時代の話になりますが ここは地元で一応進学校である高校に通いました。

学校は近畿大学附属和歌山高等学校という学校でしたが 私立の学校で田舎の私立ですから 現役国立医学部を目指せ みたいな 学校でした。

だいたい2000人ぐらい受験したそうですが 私の成績が上位25位だったということです。

そのために学校の中で一番の進学クラスである アドバンス クラスというところに入学しました。

そこから結構厳しいなと思ったのが私立の学校ですから和歌山 全土 やそして大阪の南部からいろんな学校の生徒が集まってきています。

同じクラスに来ている人もみんなそれぞれの学校で成績優秀者ばかりですから遊んでいたら勝てるという世界ではなくなりました。

つまり進学校の進学クラスに入ってしまった ジレンマというものはありましたけども そこは気にしても仕方がないと思って 適当に行っていました。

クラスメイトの多くは 国立の医学部などに入りましたが 、私は成績が足りませんでしたので 現役で国立行ければどこでもいいかなと思っていたのですが たまたま大学は東京商船大学という変わった大学があったので そこに受けました。

学業についてはあまり語っても仕方がないので 高校時代はどうだったかといえば私立の結構校則の厳しい学校だったので そこまで 学校内で暴れることはなかったのですが、 一度図書室で先生と 取っ組み合いの喧嘩になって退学になるからという時があったのですが 、たまたま 高校時代も 生徒会長やっていたので 生徒会長 を退学にさせるわけにはいかないということで退学を免れたことがあります。

ということが、一度ありましたが それ以外は 特にそれということはなかったような記憶があります。

ただ 高校時代も 陸上部で投てきを行っており 投てきに気合を入れるというよりも ウェイトトレーニングに気合を入れていました。

全国大会で活躍していた体育の先生にも言われましたが 人間は力だけではないなどと言われていましたけども 当時は結構 体鍛えることに凝っていました。

ちなみに砲丸投げは、県大会で入賞できるレベルでした。

高校3年生になり進学をどうするかは と言った時にうちの親が現役で国立大学入ったら車買ってあげる という言葉につられて現役で国立大学 行けるところを探した結果 東京商船大学 という大学に進学しました。

国立 東京海洋大学という名称に変わっていますが 一応東京の国立大学です。

その原因はやはり自分のおじいさんが海軍で活躍していたということも聞いていたので海の世界というのはどうなっているのかというのが興味があったというのと、あと私自身は理系のテストの結果が良かったのですが 、フラスコを振るような研究者には向いていないと思い、変わった学部がいいなと思ったので船の世界を見てみようと思い その学校選びました。

Now, let's talk about my high school days. I went to a high school in my hometown that was a preparatory school.

The school I went to was Wakayama High School attached to Kinki University, and since it was a private school in the countryside, it was a school where he was encouraged to aim for an active national medical school.

Apparently around 2,000 people took the exam, and my score was in the top 25.

For that reason, I enrolled in the advanced class, which is the highest level of advancement in the school.

What I thought was quite tough was that it was a private school, so students from all over Wakayama and the southern part of Osaka gathered from various schools.

The people in the same class are all high achievers at their respective schools, so it's no longer a world where you can win just by playing.

In other words, there was a dilemma for him when he entered the preparatory class at his preparatory school, but he thought there was no point in worrying about it and went about it as he pleased.

Many of my classmates entered national medical schools, but since my grades weren't good enough, I thought that if I could go to a national university while still active, I would be fine, but he happened to go to an unusual university called Tokyo University of Mercantile Marine. There was a university there so I took the exam there.

There's no use talking too much about my schoolwork, so I'll talk about my high school days as a private school with fairly strict rules, so I didn't get too violent at school, but once I had an argument with my teacher in the library. There was a time when I was told that I would be expelled from school because of a grappling fight, but I happened to be the student council president in high school, so I was able to avoid expulsion because I couldn't let the student council president get expelled.

That happened to me once, but I don't remember him thinking much about it other than that.

However, even in high school, he was a thrower on the track and field team, and rather than focusing on throwing, he was more focused on weight training.

My physical education teacher who was active in national competitions told me that humans are not just about strength, but back then I was very particular about training my body.

By the way, my shot put was at a level that allowed me to win at the prefectural tournament.

When I entered my third year of high school and was asked if I should go on to higher education, my parents said that if I entered a national university, he would buy me a car, so I searched for a place where I could go to a national university while still active, and as a result I ended up at Tokyo University of Mercantile Marine. I entered a university called.

Although the name has been changed to Tokyo National University of Marine Science and Technology, it is still a national university in Tokyo.

The reason for this was that I had heard that my grandfather was active in the navy, so I was interested in what the sea world was like, and I was also taking a science test. Although my results were good, I didn't think it was suitable for a researcher who shakes flasks, and I thought a different department would be good, so I decided to take a look at the world of ships and chose that school.

 

1992年-1997年大学時代 東京商船大学 商船学部 航海学コース 東京都江東区ー江戸川区|1992-1997 University years Tokyo University of Mercantile Marine, Faculty of Merchant Marine, Nautical Science Course, Koto-ku - Edogawa-ku, Tokyo, Japan

大学時代の話をすれば私自身は 和歌山の田舎から東京の大都会に上京したわけですから 初めは 右も左も分からず 東京での生活を過ごし 始めました。

私が通った学校は進学校だったので 同級生の多くは関西の大学に進学したのですが 数は多くありませんでしたが 東京の大学に進学した人もいたので 初めは そのような 知り合いと結構 つるんでいました。

東京に来た時に一番初めに住んだところが 東京都江戸川区にある 葛西という場所です。

東西線の葛西駅から徒歩10分くらいのところのマンションに住んでいました。

これが私にとって初めての東京暮らしのスタート ということになります。

東京での学生時代というのはほとんどがバイトに明け暮れていたというのが当時の記憶です。

葛西というところに住んでいましたので近くで行けるアルバイトということで いくつか 探して ちょうど学生時代、 賄いが食べられる飲食店のアルバイトが良いと思い 居酒屋や 串カツ屋 そしてドーナツ屋で働きました。

宅配のピザ 弁当屋でも仕事をしたことありました。

基本的に飲食関係で結構長い間 働いていてドーナツ屋で働いてる時は相当気合い入っていたので これが今で言う吉野家 D & C です。

アルバイト店長にならないかと言われるぐらい気合い入れて働いていたと思います。

学生時代の影響としては学業というよりも アルバイトと そして 後は中国人の留学生との出会いというものも結構 私の人生に影響を与えています。

私は子供の時にうちの父親が日中国交回復に従い 有効の船ということで成年交流団の一員として中国に行ったという話を子供の頃よく聞いていました。

そのようなこともあり 中国は行ったことはなかったのですが 割合 行ってみたい国の一つでした。

当時は 90年初頭ですから中国はまだまだ経済発展ができておらず 貧しい時期だったと言えます。

当時の中国人留学生を見ていても 決して裕福だと思えませんでしたが中国から 正規留学で来ているような人は結構 優秀な人が多くてなぜこういう風な人が多くいるのに中国は貧しい国 なんだろうかという疑問を持ちました。

つまり 中国というのは一体どういう国なんだろうかということが非常に興味を持ちましたが 中国人の学生に聞けば 中国は国家の体制により若者はチャンスがないので海外に出てきますということをよく言っていました。

そのような話を伺えば 中国は完全にその生まれた家系などが影響を押し その家系が良ければいい人生が待っていますが 、そうでなければ努力しても無駄だというのが 中国人の考えにあり、その道を変えるには 海外に行って自分の人生を発展させるしかないということを語っていました。

天安門事件が終わって何年か経ったぐらいの時期ですから話を聞くと 留学生の知人も学生時代 に天安門事件に参加をして 竹槍 持って提案も行きましたとか言っている 留学生もいました。

その時の話を聞けば結構面白かったのですが、中国の学生運動 を中国の国鉄などが支援したために学生は無料で電車に乗って北京に行くことができたそうです。

ただ あの後の大きな 弾圧があり その後 そのような活動していたメンバーや 自分自身の将来が 未来がないと思ったような学生は海外への留学を決意したということを言っていました。

それと 東京にいる中国人には色々な人がいるということを見て中国の世界というのは一体何だろうかというのに関心を持つようになりました。

それで 学生時代に知り合った中国人から色々 意見を聞き 日中友好協会というところの 留学生 募集 という 掲示板を見つけたので そこに電話をかけ上海への留学を決めました。

学生課の前を歩いている時に日中友好協会 中国の大学に留学しませんか という 張り紙につられてそのまま連絡をしました。

どこの大学がいいのかよくわからなかったのですが 上海へ行けばまあ楽しい学生生活がいいかなと思ったので男臭いところよりも女の子が多い大学がいいと思い 上海師範大学を選びました。

ということで そこからは中国留学への話になります。

話は戻りますが 学生時代に中国人の友人と中国から商材を輸入し 個人輸入代行業として小さい商売をしたことも 中国 ビジネスに関心を持ったきっかけになっています。

 

Speaking of my university days, I moved from the countryside of Wakayama to the big city of Tokyo, so I started my life in Tokyo without knowing right from left.

The school I went to was a preparatory school, so many of my classmates went on to universities in the Kansai region, but there were a few who went on to universities in Tokyo, so at first he had quite a few acquaintances like that. I was hanging out.

The first place I lived when I came to Tokyo was a place called Kasai in Edogawa Ward, Tokyo.

I lived in an apartment about 10 minutes walk from Kasai Station on the Tozai Line.

This will be my first time living in Tokyo.

My memory is that most of my time as a student in Tokyo was spent working part-time.

He lived in a place called Kasai, so he looked for some part-time jobs nearby.When he was a student, he thought it would be good to work part-time at a restaurant where he could get paid meals, so he worked at an izakaya, a kushikatsu shop, and a donut shop. Ta.

I also worked at a delivery pizza bento shop.

Basically, I worked in the food and beverage industry for quite a long time, and when I worked at a donut shop, I was very enthusiastic about it, so this is what we now call Yoshinoya D & C.

I think I worked with such enthusiasm that I was asked to become a part-time store manager.

When I was a student, my part-time job and my encounters with Chinese exchange students had quite an influence on my life, rather than my studies.

When I was a child, I often heard that my father went to China as a member of an adult exchange group on a valid ship following the restoration of diplomatic relations between Japan and China.

Because of this, even though I had never been to China, it was one of the countries I wanted to visit.

At that time, he was in the early 1990s, so it can be said that China had not yet achieved economic development and was in a period of poverty.

When I looked at the Chinese students studying at the time, I didn't think they were wealthy at all, but there were a lot of people who came from China as regular students, and they were quite talented.Why are there so many people like this in China? I wondered if it was a poor country.

In other words, I was very interested in what kind of country China is, but when I asked Chinese students, they often told me that young people in China don't have many opportunities because of the country's system, so they often go abroad. said.

When I hear stories like this, Chinese people think that in China, the family lineage you are born into influences you completely, and if your family lineage is good, you will have a good life, but if you are not, there is no point in trying hard. He said that the only way to change his path was to go abroad and develop his life.

It's been a few years since the Tiananmen Incident ended, so I heard some international students say that they had participated in the Tiananmen Incident when they were students, and even brought along bamboo spears and made proposals.

It was quite interesting to hear the story from that time, but because the Chinese National Railways supported the Chinese student movement, students were able to ride the train to Beijing for free.

However, he said that there was a great deal of repression after that, and after that, members who were involved in such activities and students who thought they had no future decided to study abroad. Ta.

Also, seeing that there were many different kinds of Chinese people in Tokyo, I became interested in what exactly the Chinese world was like.

He heard various opinions from Chinese people he had met during his student days, and when he found a bulletin board called the Japan-China Friendship Association that was recruiting international students, he called there and decided to study abroad in Shanghai.

As I was walking in front of the student affairs office, I saw a sign asking if he would like to study abroad at a university in China from the Japan-China Friendship Association, so I contacted him.

I wasn't sure which university would be best for me, but I thought I would have a fun student life if I went to Shanghai, so I chose Shanghai Normal University because I thought it would be better to go to a university with more girls than a masculine one.

So from there he started talking about studying abroad in China.

Going back to the topic, when I was a student, I imported products from China with a Chinese friend and started a small business as a personal import agency, which also led to my interest in Chinese business.

1997年ー1999年 上海留学時代 上海師範大学 |1997~1999 Shanghai Study Abroad Era Shanghai Normal University

上海の 留学時代は これは上海師範大学という学校の先生になる学生を集めている大学に留学しました。

大学を決めた一番の理由は私が日本の大学に進学している時 知り合った留学生の友達が 上海で留学するんだったらどこの大学に行けば良いかという質問をすれば、その友達の彼の回答は僕だったら 上海師範大学行くね という言葉を信じて そこに行きました その理由は 上海 師範大学の女性の割合が非常に多いという理由が 話してました。

私は東京の大学は理系の大学でしかも 船の大学だったので ほとんどが男性でしたので女性が多い学校の方が せっかく 留学だったら面白いかなと思ったのでそういう理由で選択しました。

ま単純に男心というのか スケベ心というのか そういうような感覚です。

それで 上海師範大学に留学したわけですが確かに教えてもらっていたように ここは女性の学生がたくさんいました。

それで中国語を勉強しようと思って一番いい方法は何かと思ったので ここは 現地の女の子と友達になるしかないと思い 毎日 正門のところで 学生の女の子をナンパしていました。

そうしているとフランスから来た留学生がお前たちは何をしているのかということでナンパをして勉強しているといえば俺も混ぜてくれと言われて ここで国境を越える 友情が芽生えました。

やはり男同士というのはバカな話は盛り上がります。

こういうことであまり英語も得意ではなくカレーもフランス人だったので英語は上手くはなかったのですが考えていることは所詮男心とスケベ心ということになり 留学生活は結構楽しく過ごしました。

ですから 中国語を勉強しに行き 勤勉な 学生というわけではなく これはほとんど 中国留学するために遊びに行ったような感覚ですがとりあえず 語学を学びに行ったのですから 現地と交流しなければいけないと思い 毎日のように 正門を出たところで 学生のナンパをしていました そして夜になると日系のカラオケ屋さんなどがありましたんでそういうところで行って夜遊びをして過ごしていました。

つまり私自身は中国語が結構話せます が99%はほとんど遊びで覚えた 中国語です。

貿易などの専門用語は使えますが だいたいそういう単語って 100個ぐらいの単語を知っていれば 専門家として十分 話ができますから それ以外のトークのパターンというのは 夜遊びで鍛えたというのが現実です。

つまり 結構無駄な時間と無駄なお金は使いましたが確かに 中国語は話せるようになって今に至ります。

ということで 、中国ビジネスというよりも 中国の上海という町の面白さを探求しました。

結構 怪しいところも たくさんあり ダークな中国を探索することにもこだわっておりあまり インターネットでは書けないような ダークな世界を色々見てきました。

ある意味 現地の中国人の友達からもお前たち そんなところによく行くなと言われるぐらい いろいろなところに顔を出していました。

そう考えれば、私の中国留学というのは先見の目があるというよりも ただ単に、冒険したかっただけというしか言いようがありません。

留学時代は結構あちらこちらに旅にも行きました 。

電車やバスを乗り継いで中国の内陸部に行ったり または一方ではベトナムの国境の近くの海南島 という島にも1ヶ月ほど 滞在して時もありました。

 

When I was studying abroad in Shanghai, I studied at a university called Shanghai Normal University, which attracts students who become teachers.

The main reason I decided to go to university was when I was attending a university in Japan, a friend of mine who was an international student asked me which university I should go to if I was going to study abroad in Shanghai. His answer was, ``If it were me, I would go to Shanghai Normal University.'' I believed him and went there, and he told me that the reason for that was because the proportion of women at Shanghai Normal University was very large.

I went to a university in Tokyo that specializes in science and was also a ship university, so most of my boyfriends were men, so I thought it would be more interesting for her to study abroad at a school with a lot of women, so I chose that for that reason. .

I feel like it's just a man's heart, or maybe he's a lewd one.

So I went to study abroad at Shanghai Normal University, and as I was told, there were many female students there.

So she wanted to learn Chinese and wondered what the best way was, so she thought she had no choice but to make friends with local girls here, so she started picking up student girls at the main gate every day.

As I was doing so, an exchange student from France asked me what you guys were doing and asked me if I was studying.He told me to include him in the mix, and here he started a friendship that transcended borders. has sprouted.

As expected, silly stories between men are exciting.

Because of this, I wasn't very good at English, and my curry was French, so my English wasn't very good, but what I was thinking about was all about manhood and lewdness, and I had a pretty fun time studying abroad.

So, I didn't go there to study Chinese and be a diligent student.It almost feels like I went to China to study abroad, but since I went there to learn the language, I thought I should interact with the local people. Almost every day, I would pick up students right outside the main gate, and at night, there would be Japanese karaoke bars, so I would go there and spend the night out.

In other words, I can speak Chinese quite well, but 99% of it is mostly Chinese that I learned through play.

He can use technical terms such as trade, but if he knows about 100 words, he can speak as an expert, so he learned other conversation patterns by going out at night. That is the reality.

In other words, I wasted a lot of time and money, but I am now able to speak Chinese.

So, rather than focusing on Chinese business, I explored the interesting aspects of Shanghai, China.

There are a lot of suspicious things about him, and he is particular about exploring the dark world of China, and he has seen a lot of things in the dark world that he can't write about on the internet.

In a sense, my Chinese friends there told me not to go to those places often, so much so that I saw him in many places.

If you think about it, I can only say that he simply wanted an adventure rather than having the foresight to study abroad in China.

When I was studying abroad, I traveled a lot.

I traveled to inland areas of China by train and bus, and even stayed on an island called Hainan Island near the Vietnam border for about a month.

I studied abroad for about two years, but I didn't attend school very seriously and mostly did outdoor learning.

 

After such a fun period of studying abroad, I started thinking seriously about how I could do business in China and make a living in China.

There was a deadline for studying abroad, so he decided to study abroad for two years and then go back to his home country, but he decided to go back to his hometown and look for a job, so I will talk about that in the next chapter.

約2年間の留学でしたが 学校はあまり真面目に出席はせず ほとんどが外での 野外学習でした。

 

このような楽しい 留学の時期を過ぎ、 どのようにすれば 中国ビジネスをして中国で生きていけるのかというのを真剣に考えるようになりました。

留学も 期限がありましたので 、2年間の留学で帰国をすることになったのですが それで地元に戻って就職活動することになったので それは次の章で話をします。

1999年-2000年 社会人 (株)トランス・コスモス時代 大阪支店|1999-2000 Member of society transcosmos inc.

社会人として 一番初めに就職したのが この トランスコスモスという会社です。

トランスコスモスというのは 、東証1部の it 系のソリューション事業を行っている企業になります。元々ここの企業というのが 和歌山県発祥の企業ということになります。

ということで、 私自身も 和歌山出身でしたので ここの企業の受験をすることに決めました。

トランスコスモスに行った理由としては実は私の父親が 和歌山県庁で it 関連の責任者 やっておりましたので、そういうことで、今だったら コネクション強いから話しかけてあげるよということで入社したというのが現状ですから、 半ば コネも活用しています。

ということで、 私自身は一番初めの就職は it 会社で就職し 「小谷さんは コンピューター 得意のようですから 開発の方に行ってください」と言われ, しばらく開発の方で毎日パソコンを見てインターネットを研究しておりましたのでその時 学んだ 知識というものは今だに役立っています。

ホームページは全て自分で作っていますが 。ホームページの作り方の基本的なことを学んだのは トランスコスモスで開発部門で仕事をしたからというのがきっかけになっています。

あまりにも仕事がつまらないということで 、和歌山支店長に話しかけて ちょっと 部署 変して欲しいというお願いをし営業に変えてもらいました。

営業部門で仕事をしたのですが、中国で仕事をしたいということで、就職したのですが、いつ 中国に派遣してもらえるかわからないということもあり 、次は中国に行くための準備ということで ここは一旦退職ということにしました。

 

My first job as a working adult was at a company called transcosmos.

transcosmos is a company listed on the first section of the Tokyo Stock Exchange that provides IT solutions. Originally, this company was a company that originated in Wakayama Prefecture.

So, since I am also from Wakayama, he decided to take the entrance exam for a company here.

The reason I went to transcosmos is that my father was in charge of IT at the Wakayama Prefectural Office, so I joined the company because I thought I would talk to him since I had strong connections. As things stand now, he is also making use of his connections.

So, my first job was at an IT company, and I was told, ``Mr. Kotani seems to be good at computers, so please go to the development department.'' I worked in the development department for a while, looking at the computer every day and using the Internet. The knowledge I learned at that time is still useful today.

I create all my homepages myself. He learned the basics of how to create a homepage because he worked in the development department at transcosmos.

My work was so boring that I spoke to the manager of the Wakayama branch and asked him to change my department, and he asked me to switch to sales.

I worked in the sales department, and I got a job because I wanted to work in China, but I didn't know when I would be dispatched to China, so the next step was to prepare for going to China. He has decided to retire for now.

2000年―2001年 社会人 NTTコミュニケーション時代|2000-2001 Working years NTT Communications Era

it 企業のトランスコスモスをやめた後に中国に行って仕事をしたいなと思っていたのですが、 すぐに中国に行ける仕事は見つからなかったのでつなぎで NTT の仕事をすることになりました。

当時は、 マイラインと言って 長距離電話の回線を登録するという作業があったのですが、 これ結構 単純な話で元々 NTT の人に対して NTT にしませんか、 という意味不明な 営業をするということでした。

これは 総務省 などが関係していたのですが 、電話回線の民営化に従い 第2 電電 と言われている KDDI やその他の電話会社が参入をするために 電話回線の選択の自由というのが当時ありました。

そのため 元々 NTT 使っている法人に対して NTT の 法人営業は NTT 回線にしませんか、 という マイライン 登録 という仕事があったので そこで 臨時採用されました。

 

もっぱら NTT の回線を持っているお客様ところに回り 、

こんにちは NTT です NTT の回線の登録に行きました よろしくお願いします ここにハンコをついてください

と言って回るだけの仕事でした。

これはさすが NTT だなと思ったのは NTT の名称を差し出せばどこのおじさんもおばさんもすぐに話を聞いてくれました。

つまり NTT の看板 力というのは半端ではないと思いました。

それで御社は今 NTT をお使いになっているのですがそれを継続するには 確認の登録のハンコがいりますので ハンコを押してくださいということを言って回ったので 私はそんな難しいと思わなかったので、どんどん結果が出たので一度は全国で表彰されるような結果を見ました。

これは営業した地域が 和歌山の田舎の 法人営業 だったので誰も他の電話会社など

 

After quitting the IT company transcosmos, I wanted to go to China and work, but I couldn't find a job that would take me to China right away, so I ended up working for NTT as a temporary job.

At that time, there was a process called MYLINE to register a long-distance phone line, but it was a fairly simple process, and originally he was asking someone from NTT if he wanted to use NTT, which made no sense. It was about doing business.

The Ministry of Internal Affairs and Communications was involved in this, but with the privatization of telephone lines, KDDI, known as Daini Denden, and other telephone companies entered the market, so at that time freedom of choice of telephone lines was given. there was.

For that reason, NTT's corporate sales team asked if he would like to switch to NTT lines for corporations that had originally used NTT, and he was temporarily hired there because he had a job to register for MYLINE.

 

He mainly visited customers who had NTT lines.

Hello, this is NTT.He went to register for an NTT line.Thank you. Please put a stamp here.

It was just a job to go around and tell people.

This really made me think that he was from NTT, because when I told him the name of NTT, any old man or woman anywhere would immediately listen to me.

In other words, I think that NTT's power as a signboard is not surprising.

So, your company is currently using NTT, but in order to continue using it, you will need a stamp to confirm your registration, so I went around asking people to press the stamp, so I didn't think it would be that difficult. So, I kept getting good results, and at one point I saw results that were awarded nationally.

This was because I was a corporate salesperson in rural Wakayama, and no one knew of the existence of other telephone companies, so I felt that this was a sign of the strength of the information gap in rural areas.

If I was in the city, I would have gotten the information, so I would have thought that there were cheaper phone companies other than NTT, but no one in the corporate sales department in Wakayama, a rural area, told me anything like that.

Therefore, his experience working at NTT made him realize the greatness of NTT, which is still a semi-state-run company when it comes to rural sales.

存在など知りませんので これは 田舎の情報格差の強さだと感じました。

多分 都会だったら情報が来ているので NTT 以外にも安い電話会社 あるじゃないかと、 突っ込まれそうでしたが 田舎の 和歌山での 法人営業はそんなこと言う人誰もいませんでした。

ということで 田舎の営業はやはり半ば 国営企業の NTT 様の凄さを実感させられたというのが NTT での仕事を行った経験でした。

2001年ー2002年 中国上海社会人 (株)中国塗料(東証プライム企業)時代 中国上海|2001-2002 Shanghai, China, working for China Paint Co.

あの中国での社会人になることができました。

これは日本の東証一部 企業で中国塗料という企業が上海の現地法人で人材を募集していたということで人材スカウト会社が連絡がありました。

「小谷さんは東京商船大学 の航海 学科出身でしかも中国に留学しているので あなたのような人材を求めています」

ということで 人材会社からアプローチがあったのです。

日本の大学生の時はほとんど 船に関心を持っていなかったので でもその時 思ったのは 船の大学というのは特殊な世界ですから この世界では 学閥というのは 強力に強いということに気づきました。

つまり 船の世界の灯台という風に 東京商船大学は当時 言われていましたが 、学校のレベルは3流だなどという人もいましたけども歴史を見れば 三菱商船学校から始まり これは相当長い日本の海運を支えてきた 学校でありますので やはり 卒業生の層が厚いと言えます。

また 船舶関係の仕事で船舶の監督 などをしている人は多くは 私の大学出身者であり、キャプテンなどを経験し その後 船舶会社の管理部などに行って 船の修繕 などを行う担当になっていましたので直接関わる人が多くは私の学生時代の先輩ということになりました。

ある意味 それが良かったこともありますし 、逆に言うと それが悪かったという点もありました。

私自身は学生時代にそのような学校に行っていたことがあり お客さんから 先輩後輩という関係で結構 信頼を得てしまうので逆に普通の大学を出てきた人から見たら同じ会社の先輩から見て嫌なやつと見えたようです。

ということで 、なかなか結果は出たのですが 私の行動に対して納得いかないという人らがいて結局 先輩たちと喧嘩別れするような結果になり この会社は退社するようになりました。

船舶の仕事はまあ 確かに 塗料関係でしたので 船底などに潜り込み塗装作業などをするので シンナーでめちゃくちゃ 危ない仕事でしたので、これは体に良くないと思って長くは続けてはいけないと思っていましたので、まあそれも 原因で やめるきっかけになったのですが  、人の世界 結構難しいなと思いました。

 

I was able to become a working adult in China.

A human resource scouting company contacted us to inform us that a company called China Paint, which is listed on the first section of the Tokyo Stock Exchange in Japan, was recruiting for its local subsidiary in Shanghai.

``Mr. Kotani graduated from the Department of Navigation at Tokyo University of Mercantile Marine, and he is studying abroad in China, so he is looking for someone like you.''

So I was approached by a human resources company.

When he was a university student in Japan, he had little interest in ships, but at that time he realized that a ship university was a special world, and that academic cliques were extremely powerful in this world. I did.

In other words, Tokyo University of Mercantile Marine was said to be the lighthouse of the world of ships at the time, and some people said the school was third-rate, but if you look at its history, it started with Mitsubishi Merchant Marine School, and this has been going on for quite a long time in Japan. As the school has supported shipping, it can be said that it has a large number of graduates.

Also, many of the people who work in shipping-related jobs, such as supervising ships, are graduates of my university, and after gaining experience as captains, they then go to the management department of a shipping company and are in charge of repairing ships. Therefore, many of the people who were directly involved were my seniors from my student days.

In some ways, that was a good thing, and on the other hand, it was a bad thing for him.

I myself went to such a school when I was a student, and he was able to gain a lot of trust from the customers as a senior and junior, so on the other hand, from the perspective of someone who graduated from a normal university, he would be at the same company. I think my seniors saw me as a disgusting person.

So, I got some good results, but there were some people who were not satisfied with my actions, and in the end we ended up fighting and parting ways with my seniors, and he ended up leaving the company. .

Well, I did work on ships, and it was paint-related, so I had to crawl into the bottom of the ship to do the painting work, and it was very dangerous work because I used paint thinner, so I thought that this was not good for my health and I shouldn't continue doing it for a long time. So, that was also the reason why I quit, but I also thought that the world of people is quite difficult.

 

 

2002年ー2003年 上海社会人 外高橋保税区 高砂倉庫時代 中国上海|2002-2003 Shanghai Socialist, Takasago Warehouse Era, Waigaoqiao Free Trade Zone, Shanghai, China

私が 上海で就職した 2番目の企業が上海の外高橋保税区にある福岡県の物流倉庫会社でした。

会社の名前は高砂倉庫という企業で中小企業にはなりますが 、拠点は福岡県を中心とし 物流倉庫業を行っている企業です。

上海の現地法人では何をしていたかというと 日本のアパレル 企業から届く 糸や 生地などの商品を一度 保税 保管をしそれを中国全土にあるメーカーに再配送するという ピッキングと物流 そして輸入通関をする仕事をしていました。

だいたい30人ぐらいの倉庫作業をする企業でしたので スタッフは日本人が1人か2人 それと 現地の人が30人ぐらいで企業を運営してました。

まだ、この企業にはじめ 就職した時 思ったのは 社内が体制がむちゃくちゃでどうしようもないという状況でしたが これを何とかしてください みたいな話でした。

 

何がおかしいかというと 、チームワークは全くない 、また、みんなが仕事をきちんとしないので ミスも多く また取引会社からは 圧力かけられて 営業成績が悪くなっていたという状況がありました。

それをやり直さなければいけないという非常に面倒くさい 仕事でしたけども、 私自身はこの問題を 4ヶ月 か 5ヶ月間で解決しました。

これは何を行ったかというと、 社内のチーム 結束力を高め 同時に 日本のアパレルメーカーがお客さんだったのですが値上げ交渉を成立させたという快挙を成し遂げたのです。

なぜ値上げ交渉がうまくいったかというのは、近所の物流倉庫会社の値段を全部調べた結果 私の勤めていた会社は 取引会社の部長があまりにも剣幕に起こるということで 値下げをしすぎて赤字になっていたらを こちらが 明日 荷物を外に出すかもしくは値上げ交渉に同意するかどちらかにしろという 喧嘩殺法で値上げを成功させました。

ある意味 、相手が威圧的に喧嘩売ってきてるんですから、こっちも負けてはいけません 。じゃあお前の荷物 外に出されたら困るだろう。という「いじめ」というか そういう 圧力をかけて 値段交渉する 以外 この問題を解決する手段がなかったのです。

 

結果 あまりにも短期間でうまくいき 会社の中の問題としては従業員の結束がないということは これは 挨拶と掃除だと思ったので 挨拶と掃除を徹底しました。

結果予想以上にうまくいきいきなり車内は良くなったのですが それを見て3年間 近く うまくできていなかった 専務が嫉妬し お前もういいから 日本に戻ってこいと言われたので 私は上海の現地採用ですから なぜ日本に戻るんですか ということになり 結論 喧嘩別れ し終わりました。

 

The second company I worked for in Shanghai was a logistics warehouse company in Fukuoka Prefecture located in Shanghai's Waigaoqiao Free Trade Zone.

The company's name is Takasago Warehouse, and although it is a small to medium-sized company, it is based in Fukuoka Prefecture and operates a logistics warehouse business.

What he did at the local subsidiary in Shanghai was to store products such as yarn and fabric received from Japanese apparel companies in bond, and then re-deliver them to manufacturers throughout China.He was responsible for picking, logistics, and import customs clearance. I was working to do this.

It was a company with about 30 people doing warehouse work, so his staff consisted of one or two Japanese people and about 30 local people.

When I first started working for this company, I thought that the company was in a mess and there was nothing we could do about it, but he was like, ``Please do something about this.''

 

What was strange was that there was no teamwork at all, and because everyone wasn't doing their jobs properly, he was making a lot of mistakes.He was also under pressure from his trading companies, and his sales results were getting worse. .

It was a very tedious job that had to be redone, but for me, he solved this problem in 4 or 5 months.

What this did was increase the cohesiveness of the company's team, and at the same time, it achieved the remarkable feat of negotiating a price increase for a Japanese apparel manufacturer.

The reason why the price increase negotiation went so well is that after researching all the prices of nearby distribution warehouse companies, the company I worked for found that the general manager of the trading company was too aggressive, so they cut prices too much and were in the red. If this were the case, we succeeded in raising the price by using a quarrel, telling them to either send the package out tomorrow or agree to negotiate a price increase.

In a sense, the other party is trying to use coercion to pick a fight, so we must not give in. Well, it would be a problem if your luggage was taken out. He had no way to solve this problem other than to apply pressure and negotiate the price.

 

As a result, things went well in a very short period of time, and the problem within the company was that there was no unity among the employees.I thought this was all about greeting and cleaning, so I made sure to greet and clean thoroughly.

The results went better than expected, and suddenly the interior of the car improved, but after seeing that, I couldn't do it properly for nearly three years.The managing director got jealous and told me to go back to Japan, so I was hired locally in Shanghai. So I asked myself why I was going back to Japan, and we ended up saying goodbye.

2004年ー2013年 起業創業 上海泉能貿易有限公司時代(SFE貿易) 中国上海|2004~2013 Started business Shanghai Quaneng Trading Co.

2004年 私は上海で就職していた 倉庫会社を退職をし 数ヶ月ぶらぶらしていたのですがその時どうしようか考えていたのですが もう何か自分でするしかがないと思い起業することにしました。

これもきっかけがあったのですが 上海で仕事をしている時に知り合ったある駐在員の友達が中国のメーカーと貿易をして自動車メーカーに納品する金属製 ラックなどを上海のローカル 工場で生産をしたいという 依頼がありましたのでその業務を手伝うことで事業をスタートさせました。

その企業は名古屋の大手自動車メーカーに納品する上場はしていないですが結構大きな会社でしたので 取引量もあり 初めは順調に ビジネスが展開できました。

創業してお客さんはその会社 1社だけで何とかやっていたのですが 万が一 ここの会社が取引をやめると言われれば一発で終わると思ったのでこれは他のお客様も見つけなければいけないと思い どうすればいいのかわからなかったのですがふと思い出したのが 私自身が一番初め 就職した会社がトランスコスモスという it 企業で開発部で仕事をしたことがあったのでホームページの作り方は詳しかったのです。

それで上海にいて日本の取引先をどのように探せばいいのかというのを考えて インターネットのホームページというものを最大限に活用しました。

もしあの時 it の勉強をしていなかったら ホームページを作れていなかったので 今考えれば不思議なもので役に立っています。

ということで自分でホームページを作り そして宣伝をしなければいけないと思い 上海でポータルサイトがありましたので そこにひたすら バナー広告出すことにしました。

トップページに結構な広告料を出して何年間も広告を出しましたので 上海在住の方や中国 ビジネスをされている方は結構 私のことを知っている人が多いと思います。

なぜならば 、そのようなポータルサイトに わざわざ 顔出しでバナーを貼り付けたからです。

よく大手の商社の方から

いや 小谷さんは顔に自信あるんですね。

とツッコまれていましたが 海外で事業やっているということは初めから信用がないということにもなりますので顔でも出しとけばマシ かなと思ったので顔出ししていました。

それで 現在は YouTube などで 動画配信 というものが当たり前ですが 当時は 動画配信 というものが全くない状況で 2004年には YouTube もない時代でした。

確か 記憶が正しければ YouTube は 2006年に創業しています。

その当時私自身は自分の サーバーに動画をアップロードしストリーミングの技術を使って自分で撮影した動画を毎日ホームページにアップしていました。

当時は外国の情報がすぐに動画で見れるということは非常に珍しいこともあり その効果もあり多くのお客様から連絡をいただけました。

特に 2006年頃から上海進出 ブームというのがありました。

その当時は日本全国から中国で起業したいという若者が集まり 賑やかな時期でしたので 非常に面白かったです。

ということもあり 私自身の上海 留学 生活から始まり 上海での企業の当初というのは結構面白く過ごすことができた いい時代でした。

業務としては 貿易コンサルティング会社ということで 中国のメーカーさんで色々なものを発注し製造したものをコンテナに入れて日本の現場に納品をするという業務と、後は上海などに進出してくる新しい事業者に対して現地法人を設立するための法人登記を行っていました。

当時は中国に来る日本からのお客さんもたくさんいましたので 毎日 日本全国から色々なお客さんが来て 空港に迎えに行きそ接待と宴会の日々でした。

また、その当時は 中国ビジネスに関心を持ってくれる人も多いということもあり 中国 ビジネスセミナーも行い 毎週のようにお客様を動員することができ 全国で約3500社の方が参加いただいたと思います。

このような中国 ビジネス黄金期を過ごした人物として今の中国を見るとちょっと残念です。

話は セミナーの話に戻りますが 中国貿易は中国 コンサルティングの事業を進める上でリスクというものがたくさんありますのでそのことについて説明をするということで セミナーを行っていたのですが、 毎回 説明するのが、めんどくさいのでそれを動画にとって インターネットで放映していると、いつのまにかこのようなビジネスセミナーをする講師だということが認識され JETRO や商工会議所などから講演依頼が来るようになりました。

その後に、大学での講義やまたアリババの日本導入の際のセミナーなどを依頼されるようになり 結構 セミナーが盛況 となり 面白い時がありました。

これも 中国という カテゴリーが非常にブームであったというのがあります。

現地で長く仕事をしていたというのもありそういう点で 中国ビジネスセミナー というのが注目をあびた 時代もありました。

また私自身も大学で教えるなどの経験もさせていただき 一番印象的だったのが 北京大学のエグゼクティブ MBA で 教壇にたてたことです。

ある意味 、この北京大学で教えることができたという経験というものは私自身 中国留学に行った1人の日本人留学生としてはよく頑張ったなと 自分自身では思っています。

今考えてみれば 上海師範大学というところに留学はしたのですがほとんど遊ぶ目的で行ってましたので、そういう人がなぜかわからないですが 、北京大学の貿易の講義で教えたのですから ある意味 自分でも思いますが 快挙です。

これもある程度の探究心だと思うのですが、 私自身は 貿易業をするには、どのように説明をすれば良いのかということで 中国の貿易の仕組みや法律 税制について徹底的に調べた時期がありました。

結構 性格的にマニアックなところがありますので、調べ出すと別にこんなこと知らなくても必要がないというような内容まで研究したくなるので、 どちらかというと 研究家です。

それでふと思い出したことがありました。 日本の大学で 、卒業論文を書くときに大学の先生にお前はバカか と言われたことがありました。

これは私自身が中国に関心があるので 中国経済について 卒業論文を書きたいと教授に話したところ お前は、東京商船大学の船舶の学校に来ているのに なぜ中国経済について論文を書きたいんだ 却下 しろという 言われ 、結局は 船舶の揺れに対してどのように 危険物が爆発するかというよくわからんや 論文を書きました。

もう何を書いたか忘れましたけども 、最終的に 北京大学のエグゼクティブ MBA で先生として教えることができた時 あの時 大学の先生に言われた言葉に対して、やればできるじゃないか。と 自分自身に言い聞かせました。

ということで、 私自身の中国での企業ということで言えば貿易コンサルティングビジネスからセミナービジネス そして 大学などで教えるなどの色々な経験ができたと言えます。

ただこれも 、2012年に尖閣諸島の漁船衝突問題というのがありました。

それ以降 日中関係は非常によくなくなり 中国の体制も変わったことで 上海にいた多くの仲間も ベトナムに移住するなど 東南アジア シフトが一気に進んでしまい 上海 ビジネスというものの良さがなくなりました

 

In 2004, I quit my job at a warehouse company in Shanghai and was hanging around for a few months, thinking about what to do.I decided to start my own business. Did.

This also came about because a friend of an expatriate I met while working in Shanghai started trading with Chinese manufacturers and started producing metal racks and other items for delivery to automakers at a local factory in Shanghai. I received a request to do this, so I started the business by helping with the work.

Although the company was not listed on the stock market, it was a fairly large company that supplied products to major automobile manufacturers in Nagoya, and there was a large amount of transactions, so his business was able to develop smoothly at first.

When I started my business, I was managing to get by with just one company as a customer, but I thought that if that company decided to stop doing business with me, it would be a one-shot deal, so I decided that I needed to find other customers as well. I didn't know what to do, but I suddenly remembered that my first job was at an IT company called transcosmos, where I worked in the development department, so I knew a lot about how to create a website. .

So while he was in Shanghai, he thought about how to find Japanese business partners and made the most of internet homepages.

If he hadn't studied IT at that time, he wouldn't have been able to create a homepage, so now that I think about it, it's strange and useful.

So he thought he had to create his own homepage and advertise it, so he found a portal site in Shanghai and decided to put up banner ads there.

I paid a considerable amount of money to advertise on my home page for many years, so I think that many people living in Shanghai or doing business in China know about me.

This is because he went out of his way to paste a banner on such a portal site showing his face.

I often hear from people from major trading companies.

No, Mr. Kotani has confidence in his face.

He scolded me, but since doing business overseas means he doesn't trust me from the beginning, I thought it would be better if he showed his face, so I showed my face.

Nowadays, streaming videos on YouTube is commonplace, but back then there was no video streaming at all, and he was in 2004 when there was no YouTube.

If I remember correctly, he founded YouTube in 2006.

At that time, I uploaded videos to my boyfriend's server and uploaded them to my homepage every day using streaming technology.

At that time, it was extremely rare to be able to immediately view foreign information on video, and he received many inquiries from customers due to the effectiveness of this service.

Especially since around 2006, there has been a boom in his expansion into Shanghai.

At that time, it was a lively time when young people from all over Japan who wanted to start a business in China gathered, so it was very interesting.

For that reason, my time as an exchange student in Shanghai, and the beginning of my company in Shanghai, was a very interesting time for me.

Our business is a trade consulting company, so we order various products from Chinese manufacturers, put the manufactured products in containers, and deliver them to sites in Japan.We also have new businesses that are expanding into Shanghai and other areas. The company registered a company to establish a local corporation for the company.

At that time, there were many Japanese guests coming to China, so every day we had various guests from all over Japan, we went to the airport to pick them up, entertained them, and had banquets.

Also, at that time, there were many people who were interested in doing business in China, so we held Chinese business seminars and were able to mobilize customers almost every week, and I think about 3,500 companies across the country participated.

As someone who lived through such a golden age of business in China, when I look at China today, I feel a little disappointed.

Going back to the topic of the seminar, there are many risks involved in China trade and consulting business, so I was holding seminars to explain these issues, but each time I explained them. It was a pain, so I made a video of it and broadcast it on the Internet, and before I knew it, people recognized me as a lecturer who gave such business seminars, and I started receiving requests to speak from JETRO, the Chamber of Commerce and Industry, etc.

After that, I started being asked to give lectures at universities and also give seminars on the introduction of Alibaba to Japan, and the seminars were quite successful and I had some interesting times.

This is also because her category of China was very popular.

There was a time when Chinese business seminars were attracting a lot of attention, partly because I had been working there for a long time.

I also had the experience of teaching at a university, and the most memorable one was teaching at Peking University's Executive MBA course.

In a sense, as a Japanese international student who went to study abroad in China, I personally think that the experience of being able to teach at Peking University was a great success.

Now that I think about it, I studied abroad at Shanghai Normal University, but I mostly went there for the purpose of having fun, so I don't know why such a person is like that, but he taught a trade course at Peking University, so he was a certain person. It's a great accomplishment, even if I think about it myself.

I think this is a certain level of inquisitiveness, but for me personally, there was a time when I thoroughly researched China's trade system, laws, and tax system because I was wondering how I could explain how to do business in the trading business. had.

I have a rather geeky personality, so when I start researching things, I end up wanting to research things that I don't even need to know, so I'm more of a researcher.

Then I suddenly remembered something. At a Japanese university, when I was writing my graduation thesis, a university professor asked me if I was an idiot.

Since I am interested in China myself, I told my professor that I would like to write a graduation thesis on the Chinese economy, and he asked me, "Why do you want to write a dissertation on the Chinese economy when you are attending the shipping school at Tokyo University of Mercantile Marine?" I was told to reject it, and in the end I wrote a paper that I didn't really understand how dangerous materials could explode in response to the shaking of a ship.

I don't remember what I wrote, but when I was finally able to teach at Peking University's Executive MBA program, I realized that I could do what my university professor told me. I told myself.

So, in terms of my own company in China, I can say that I have had a variety of experiences, from trade consulting business to seminar business and teaching at universities.

However, in 2012, there was the issue of fishing boat collisions in the Senkaku Islands.

After that, the relationship between Japan and China deteriorated significantly, and as the Chinese system changed, many of my colleagues who had been in Shanghai moved to Vietnam, leading to a sudden shift to Southeast Asia, and the idea of doing business in Shanghai was no longer good.

 

2006年ー2013年 2016年ー現在 香港法人 |2006-2013 2016-Present Hong Kong incorporated 

香港法人の話ということ言えば 香港では会社は2回作っています。

2006年に設立した企業は これは上海で作った会社の香港企業として 三国間貿易をするために作った企業となります。

2016年にもう一度 香港企業を作っていますが これは私自身が100% 外資の企業として作りました。

前に作った企業というのは 実は中国人の友人と一緒に起業した際に作った企業となります。

香港法人については結構長く企業を行っております。 実はうちの 貿易会社の基本モデルというのは香港をベースに事業を展開していると言えます。

なぜかと言うと 、香港というのは 中国 貿易におけるある 意味 ゲートウェイであり、 なぜここに法人を作るかというのは 、これは中国と外国との資金のやり取り というところで外貨の送金が結構 めんどくさい 、という条件があるために 、香港はその点 非常に便利であるという利点を最大限に使っています。

香港は、国際金融都市であり 同時に自由貿易都市でもあります。

また外国とのやり取りをする際の キャピタルゲインに対して非課税であるというのが非常に メリットがあり 、このようなルールを最大限に使うことによって中国貿易の利点を出すことができます。

ですから、 我々の企業としては そのような香港企業を利用しながら 中国との取引を進めるというモデルで長年 ビジネスを展開しており 実際のことを言えば 2006年に 香港で企業を作って以来 今まで香港との事業展開をしております。

ただ 香港は法人として利用しているだけですから香港でビジネスしたり 香港で生活したりはしていません。

香港の法律を見れば 香港市内で60日以上滞在したり または 香港市内で収益を上げる事業をすれば それぞれ 課税対象になるということですが 外国居住でオフショアとして 香港法人を利用するのであれば これは完全に非課税であるという最大限のメリットはあります。

そのために 香港法人 というものを利用している外国企業は非常に多く 最近は香港 もちょっと怪しいということで シンガポールに移住する方も多いのですが、 基本 外国人であれば 香港で事業をしていても 香港に在住していないのであれば 法的な部分が大きく変わっているわけではありません。

最近の傾向としては 会計監査が以前に比べて面倒になったと言っても、弊社は全て 香港の会計 会社に仕事丸投げしてますので 書類にサインするだけで他のことは全て 外注をしています。

そのような形で香港との事業の関わりはありますが、 銀行口座等の手続きがありますので 不定期に香港に行き 作業をしているというのが 今の現状でしょう。

 

Speaking of Hong Kong corporations, we have established a company twice in Hong Kong.

The company he established in 2006 is a company created in Shanghai as a Hong Kong company for the purpose of conducting trilateral trade.

In 2016, I created a Hong Kong company again, but this time I created it as a 100% foreign-owned company.

The company I created before was actually the company I created when I started a business with a Chinese friend.

Our Hong Kong corporation has been operating for quite some time. In fact, the basic model of our trading company is to conduct business based in Hong Kong.

The reason for this is that Hong Kong is, in a sense, a gateway for Chinese trade, and the reason why we set up a corporation here is because we are exchanging funds between China and foreign countries, and remittances of foreign currency are quite troublesome. Hong Kong takes full advantage of its extremely convenient location.

Hong Kong is both an international financial city and a free trade city.

Also, the fact that her capital gains from dealing with foreign countries are exempt from tax is a huge advantage for her, and by making the most of these rules, she can take advantage of trade with China. Masu.

Therefore, our company has been developing business for many years based on the model of using such Hong Kong companies to proceed with transactions with China, and to be honest, ever since we established our company in Hong Kong in 2006. Until now, we have been developing business with Hong Kong.

However, since I only use Hong Kong as a corporation, I do not do business or live in Hong Kong.

According to Hong Kong law, if you stay in Hong Kong for more than 60 days or conduct business that generates profits in Hong Kong, you will be subject to tax, but if you are a foreign resident and use a Hong Kong corporation as an offshore company. The best part is that it is completely tax-free.

For this reason, there are a large number of foreign companies that use Hong Kong corporations.Recently, Hong Kong is considered a little suspicious, and many people are moving to Singapore, but basically, if you are a foreigner, you are doing business in Hong Kong. However, if you do not live in Hong Kong, there are no major changes in the legal aspects.

Although the recent trend is that accounting audits have become more troublesome than before, we outsource all of our work to an accounting company in Hong Kong, so we just sign the documents and everything else is outsourced. Masu.

Although we have business connections with Hong Kong in this way, the current situation is that we have to go to Hong Kong irregularly to do work because we have to go through bank account procedures and other procedures.

2012年 福岡2区 国政選挙 衆議院選挙出馬 福岡県福岡市中央区|2012 Fukuoka 2 ward, national election, running for the House of Representatives Chuo-ku, Fukuoka City, Fukuoka Prefecture

2012年といえば これは私自身にとって日本へ帰国するきっかけを作った年でもありました。

何をするために帰ったのかと言うとこれは 衆議院選挙に出馬するために 日本に移住しました。

はじめ 自民党で選挙に出たいと思い 自民党と話をしましたが 支部長になることは無理だと言われたので 諦めました。

たまたま 民主党側にも事務局の部長が私の友人でもありましたので相談すると 党が分裂するから 選挙区に空きが出るので話はできるよと言われたのでその話に乗りました。

「国民の生活が第一 」という民主党から分裂した政党での出馬で途中で 政党名も変わり よくわからなくなった話ですが 公認ということで 選挙に出ることはできました。小沢一郎先生に公認してもらいました。

選挙区は、福岡2区ですので、福岡の都心部であります 。

中央区 南区 城南区 という 福岡を代表するエリアでの選挙の出馬 となり 落下傘での候補でありましたので、 なかなか人脈もなく、 苦労はしたのですが、 たまたま 中国ビジネスを行っている時に「福岡シティ銀行」との取引があり、その際に紹介してくれたお客様で、「お前がもし選挙に出るならば応援をするよ。」という企業の会長がいましたので 、「福岡で選挙に出ることになったので応援してください」ということで、数少ない 応援者がいたので応援してもらいました。

それで 選挙に出ることになったのですが, 唯一、 助かったのは地元の方が応援してくれる人がいたので 選挙のポスター 貼りだけどうしようかな と悩んだのですが結構 それが早く貼ることができてよかったです。

2週間ほどの選挙戦でしたが いろいろ思い出深いことがありました。

こういう話というのは結構面白くて選挙に出ていると色々調査に来る人から公安警察が見張りに来たりとか、色々あります。

とはいえ 2週間の選挙戦で結果は 惨敗 となりましたが、 経験としては良い経験でしたけども結構大変と言えば大変でした。

それで 選挙戦も終わりまたそこでやるのかという話になりましたけども 一度思いっきり 落選したので継続してその選挙区でやるということもなかったので一旦退散ということで 関東に移住しました。

 

Speaking of 2012, this was also the year that gave me the opportunity to return to Japan.

As for what I came back to do, I moved to Japan to run for the House of Representatives election.

At first, I wanted to vote for the Liberal Democratic Party, so I talked to them about it, but they told me that it was impossible for me to become a branch chief, so I gave up.

It just so happened that the head of the secretariat on the Democratic Party side was also a friend of mine, so I talked to him about it, and he told me that the party would be split, and that there would be an opening in the constituency, so I could talk to him about it, so I went along with the idea.

He ran for office in a party that split from the Democratic Party, which believed that ``people's lives come first,'' and the party name changed midway through, making him no longer recognizable, but he was able to run in the election because of his official recognition. It was officially recognized by Mr. Ichiro Ozawa.

The electoral district is Fukuoka's 2nd ward, which is in the city center of Fukuoka.

I was running for election in the representative areas of Fukuoka, Chuo-ku, Minami-ku, and Jonan-ku, and since I was a parachute candidate, I didn't have a lot of connections, so I had a hard time, but by chance, when I was doing business in China, I was asked to run for an election in Fukuoka City. At that time, I had a customer who introduced me to a company chairman who said, ``If you run for office in Fukuoka, I will support you.'' Please support us because we have become so successful.'' There were only a few supporters, so we asked them to support us.

So I decided to run for election, but the only thing that helped me was that I had people from my hometown supporting me, so he was worried about what to do with just putting up election posters, but it was done pretty quickly. I'm glad I was able to paste it.

The campaign lasted about two weeks, but many memorable things happened to him.

This kind of story is quite interesting, and when you are participating in an election, there are various things such as people coming to investigate various things, and public security police coming to watch.

However, although he ended up suffering a crushing defeat after a two-week campaign, it was a good experience, but it was quite difficult.

So, the election campaign was over, and there was talk about whether to try again there, but since I lost the election once, there was no way I would continue to campaign in that constituency, so I decided to quit and moved to the Kanto region.

2013年ー2014年 苦悩の手術(両目) 東京 横浜|2013-2014 Anguish surgery (both eyes), Yokohama, Tokyo

苦悩の日々ということで書かせていただきたいと思います。

2013年9月19日に起こった両目が見えなくなるということがありました 実はその前に 選挙 が終わった後に、 2012年の12月に一度 片目が出血をし半分くらい見えなくなったのですが しばらく経ったら見えるようになりました。

2013年の9月19日は実はその日は非常に目の周りがおかしいなと思ったのですが友人と食事に行くということで 神奈川県の藤沢にあるファミリーレストランでご飯を食べていました。

その帰りに突然両目が見えなくなったのです。

とはいえ 半分くらい見えていたので何とか車に乗って帰ってきましたが今考えたらあの状況でよく車に乗って帰ってきたらと思いました。

それで、ちょうどその時 神奈川県の海老名 というところで住んでいたのですが 海老名の自宅に着いた時には完全にブラックアウトをしていました。

翌日に近所の 海老名総合病院というところに行ってお医者さんに見ていただいたら 医者はもうこれは手のつくしようがないと言って1秒で逃げて行きました。

別の大学病院を紹介されるということになりましたが、 そこはうちの妻がインターネットで色々調べて 横浜になかなか良い先生がいるということで そこの病院に通うことになりました。

そこの 横浜駅前にある眼科 なんですが 私のような 網膜剥離になっている方が結構 来ており、 ほとんど 野戦病院のような 大行列でした。

つまり そこからが結構ひどい 苦悩の日々というのがありました。

目の手術と言ってももう 全く 前が見えていないわけですから 眼底出血ということで目の目ん玉の中に出血してるわけで 真っ黒なものしか見えません。

そのような状況で、お医者様が レーザーを打てば手術後の経過が良くなるということを言われたので バシバシ  レーダーを打ちました。

これが結構痛くて唸りましたけども、 両目をバシバシ レーダーで打った経験をしました 。それで手術も行いましたが そこの病院では思うように直すのが難しいということで、緊急搬送で東京医療センターという目黒にある病院に移転しました。

東京医療センターの凄腕の先生を紹介していただき 病院に着いた瞬間 もう時間がないからすぐ手術だと言われて手術をしました。

もう本人はほとんど わけのわからない状況で「分かりました」と言う以外 方法がありません。

人生における初めての手術が 目ん玉の手術ですから実はこれ結構怖いんです。 目の中に注射針で麻酔を打ち込むんですが 、たこ焼きに串を刺すようなものです。

そして目の横から目をクリップ くり抜いて中のタコを取るように 網膜をペタペタ貼り付けるわけです。

しかも ピンセットのようなものや レーダーを使って2時間くらいかけて作業するわけですから この手術 よくするなと 逆にお医者様を感心します。

普通に考えたら人の目の中をクリクリといじって横から穴を開けて 網膜を貼り付けて目の中を洗浄するなどなかなか恐ろしい 手術だと思います。

これを毎日行っているのですから ある意味 ゴッドハンドです。

それで私の目は若い年齢にしては非常に悪い ということで 、研修医から毎日何十人も観察されて 術後の経過を調べるのも 1人のお医者さんが確認した後に10人ぐらい並んでみんな同じように観察用のレンズを覗き込んでいたのでいつが終わるのかということで 逆に疲れました。

そのような状況でしたけども結果は1年半 ほどかかりましたが 視力は回復をし 現在は強制視力になりますが 1.0まで見えるようになりました。

初めは手術が終わった時には、 研修医の人たちは絶対に治らないような話をしていましたけども、 私も先生が「小谷さん 目の中にどういうレンズ入れますか 」と聞かれたので「車を運転するので遠くが見えることが重要です」と言ったので 「分かりました 近距離よりも長距離がよく見える レンズ にしときます」と言われて 先生が入れてくれました。

今は、車は運転はできます。

ですから近いところは メガネで見ていますが 、遠くは 割合 よく見えてるんです。

確かに 網膜剥離 白内障などを行っているので実は結構大変だったのですが 今は人工レンズ入れてますので見えています。ということは これはこの医療の力というものはすごいなと感心します。

 

I would like to write about these days of suffering.

On September 19, 2013, he lost sight in both eyes.Actually, before that, after the election, in December 2012, one eye bled and he lost about half of his vision. After a while it became visible.

On September 19, 2013, I actually felt something was wrong around my eyes, but I was going out to eat with a friend at a family restaurant in Fujisawa, Kanagawa Prefecture.

On the way home, I suddenly lost sight in both eyes.

However, since I could only see about half of the sky, I managed to get in the car and go home, but now that I think about it, I wish I had gotten in the car and went home in that situation.

At that time, I was living in Ebina, Kanagawa Prefecture, and when I arrived at my home in Ebina, I was completely blacked out.

The next day, I went to a nearby hospital called Ebina General Hospital and saw a doctor, but the doctor said there was nothing he could do and ran away within a second.

They decided to refer him to another university hospital, but my wife did some research on the internet and found out that there were some really good doctors in Yokohama, so he decided to go to that hospital.

There, there was an ophthalmology clinic in front of Yokohama Station, and there were quite a few people with retinal detachment like me, so the line was almost like a field hospital.

In other words, he had days of severe suffering from then on.

Even though it's an eye surgery, it doesn't mean I can't see in front of me at all anymore.There's fundus hemorrhage, which means there's blood in the eyeballs of my eyes, so all I can see is pitch black.

In such a situation, the doctor told me that if I used his laser, my condition would improve after surgery, so I put him on his radar.

This was quite painful and I groaned, but I had the experience of having my eyes slammed into his radar. So we performed surgery, but it was difficult to repair his condition at that hospital, so we transferred him by emergency to a hospital in Meguro called Tokyo Medical Center.

I was introduced to a talented doctor at Tokyo Medical Center, and the moment I arrived at the hospital, I was told that there was no time left and that I needed surgery right away, so I had the surgery.

The situation is so incomprehensible to him that he has no choice but to say, ``I understand.''

It's my first surgery in my life, so it's actually quite scary. Anesthesia is injected into the eye with a needle, but it's like sticking a skewer into takoyaki.

Then they cut out a clip from the side of the eye and glued the retina firmly inside, removing the calluses.

What's more, he spends about two hours working on something like tweezers and a radar, so he is impressed by the doctor, who says he does this surgery well.

If you think about it normally, I think it's quite a scary operation, as it involves fiddling with the inside of a person's eye, making a hole from the side, pasting the retina, and cleaning the inside of the eye.

He does this every day, so in a sense he is a god hand.

My eyes were in very poor condition considering my young age, so I had to be observed by dozens of doctors every day, and about 10 people lined up to check on my post-surgery progress after one doctor confirmed it. Everyone was looking through the observation lens in the same way, and I was rather tired, wondering when it was going to end.

Although it took about a year and a half to see the results, her eyesight recovered and now she is able to see up to 1.0 even though she is forced to have visual acuity.

At first, when the surgery was over, the trainee doctors were talking as if it would never heal, but the doctor asked me, ``Mr. Kotani, what kind of lens will you put in my eye?'' I said, ``I'm driving a car, so being able to see far is important,'' and the teacher said, ``Okay, I'm going to use a lens that allows me to see better at long distances than at short distances,'' and the teacher put it in for me.

I can drive a car now.

So he uses glasses to see things up close, but he can see fairly well from far away.

It's true that it was quite difficult because I had retinal detachment and cataracts, but now I have an artificial lens in place so I can see. This means that he is impressed by the power of medical care.

Having said that, it's true that he has had surgery on both eyes, so there are some inconveniences, but he can handle it by wearing sunglasses when the sun is bright, so he can move around normally. .

She has experienced many ups and downs in her life, but she felt that losing her sight was the toughest.

と言いながらも、確かに両目手術していますので不便なところはありますがメガネをかけて 太陽が明るくなっているところは サングラスをしていれば何とかなりますので一応は普通には動けます。

人生における山あり谷あり という色々な経験はありますが やはり 目が見えなくなるというのは 一番きついと思いました。

 

2015年 東京不動産会社 創業(ジャシボ不動産) 東京都港区|2015 Founded Tokyo Real Estate Company (Jasibo Real Estate) Minato-ku, Tokyo

2015年東京での新しい事業をスタートさせました。

妻が宅建の試験に合格したということで 東京都港区赤坂に不動産会社を登記をし 東京都宅地建物取引業者として業務をスタートさせました。

不動産に関する仕事というのは、妻のおじいさんが始めた 不動産管理会社が 神奈川県であり 倉庫や テナントを貸していたということで、 2013年に福岡から神奈川県に移住した際に、その会社で仕事をしたことがきっかけになり不動産事業をスタートさせました。

それで 宅建免許を取得し 「うさぎのマークの不動産協会」に加盟をし 東京都で登録をした不動産屋を作り 業務をスタートしたわけですが 不動産仲介のビジネスというものを全く経験したことがなかったので 、どうも やり方がわからなかったので 初めは 本や色々 不動産ビジネスの研修があったのでそれで勉強して不動産事業をスタートさせました。

初めのお客さんになったのは、 上海時代からの友人の紹介で不動産物件を借りてくれる人がいました。

その後も何人か友人の紹介などを得て不動産の仕事をすることになりました。

インターネット経由でも情報を拡散しましたので 、少し仕事が入るようになり 物件の売買などができるようになりました 大きなものは2億円を超えるような 一棟 マンションの売却 もうまく成功することができました。

不動産に対して経験を積みましたが 、不動産の業界というのは私自身もそれほど プロフェッショナル とも言えませんので 探求はしていないので結構まだわからないところはあるのですが日々いろいろ勉強しながら行っています。

たまたま 経験で言えば、 外国での生活が長かったために外国人の不動産投資家との話をする機会がありますので、そのような方に 日本の不動産の紹介なども行っています。

コロナ前は結構 中国からの不動産投資などの相談はありましたが、今は中国よりも新興国であるアジアの国々の方からの相談が増えてきていると言えます。

まだ日本の不動産も外国人が参入する機会も増えてきたので、 以前のように 外国 不動産と言ってもいろいろ相談が来るわけではなくなったと思いますが、ただニーズは東京にはあります。

ということで東京での不動産事業というものがスタートし始めは 赤坂で事務所を構えていましたが 途中で 麻布十番に移転をし今は 麻布十番の近くの東麻布で事務所を持って行っています。

In 2015, we started a new business in Tokyo.

Since his wife passed the real estate examination, we registered a real estate company in Akasaka, Minato-ku, Tokyo, and started business as a real estate agent in Tokyo.

My job related to real estate is that my wife's grandfather started a real estate management company in Kanagawa Prefecture that rented out warehouses and his tenants. My job led me to start a real estate business.

So, I obtained a real estate license, joined the ``Rabbit Mark Real Estate Association,'' created a real estate agency registered in Tokyo, and started my business, but I had no experience in the real estate brokerage business at all. So, I didn't really know how to do it, so I started my real estate business by studying books and other real estate business training.

My first customer was a friend from my time in Shanghai who introduced me to a person who rented a property.

After that, I started working in real estate through the introduction of some friends.

Since I spread the information through the Internet, I started to get some work and was able to buy and sell properties.I was able to successfully sell a large condominium building worth over 200 million yen. I did.

I have gained experience in real estate, but I haven't explored the real estate industry myself as I can't say I'm that much of a professional, so there are still a lot of things I don't understand, but I'm learning a lot every day. I am.

Speaking from experience, I have had the opportunity to talk to foreign real estate investors since I have lived in a foreign country for a long time, so I also introduce Japanese real estate to such people.

Before the coronavirus, we received quite a lot of inquiries about real estate investment from China, but now we are receiving more inquiries from emerging Asian countries than from China.

Opportunities for foreigners to enter real estate in Japan have increased, so I don't think we get a lot of inquiries about foreign real estate like we used to, but the needs are still there in Tokyo.

So when we first started our real estate business in Tokyo, we had an office in Akasaka, but along the way we moved to Azabu-Juban, and now we have an office in Higashi-Azabu, near Azabu-Juban. I am.

 

2016年ー現在 日本法人設立ー中国、香港も併せて新設する (株)ジャシボマーケティング 香港JCBO  Limited 東京都|2016 - Present Establishment of a new Japanese subsidiary, together with China and Hong Kong JCBO Marketing Hong Kong JCBO Limited Tokyo, Japan

2016年に再度日本で事業を展開しようと思い 日本の法人を設立しました。

建築資材などを取り扱う貿易商社として株式会社を設立しました。

これは足立区にあった 創業支援制度を活用しました。

東京でどこで起業しようかと考えた時に、意外と 創業に関して力を入れているのが 足立区ということが分かり、建築の事業ということもあり、 足立区は建築業界に関わる人も多いということで 足立区での創業を決めました。

一番初めに事務所を借りたのは、 足立区の公的な施設でかがやきという名称 だったと思いますがインキュベーションのルームを借りてそこで創業いたしました。

それで行ったこと というのは 、上海でやっていた事業の延長線上で中国建材や建築資材を日本の建築現場に中国で発注をして、コンテナに入れて、納品するという事業を展開しました。

インターネット経由で新しい顧客も来たのですが 、従来からお付き合いにある店舗経営者からもう仕事をもらうことになり 小さいながらでも貿易の事業を行っています。

 

その事業を行うために、同時に香港と中国の現地法人などを作りましたが コロナが大きく影響し 海外での事業展開がこの数年間 とまってしまったこともあり 、流れをもう一度 作らなければいけないかなという風に思うところもあります。

 

In 2016, we decided to expand our business in Japan again and established a Japanese corporation.

We established a corporation as a trading company that handles construction materials, etc.

This took advantage of Adachi City's business start-up support system.

When I was thinking about where to start a business in Tokyo, I found out that Adachi Ward is a place that is surprisingly focused on starting a business.I decided to start a business in Adachi Ward because it is a building business and there are many people involved in the construction industry in Adachi Ward. We decided to start a business in .

I think the first office we rented was a public facility in Adachi Ward called Kagayaki, and we rented an incubation room and started our business there.

So what we did was, as an extension of the business we were doing in Shanghai, we started a business where we ordered Chinese building materials and building materials from Japanese construction sites in China, put them in containers, and delivered them.

Although we have received new customers via the Internet, we have already received work from the store manager we have been working with, and we are now running a trading business, albeit a small one.

 

In order to conduct this business, we simultaneously established local subsidiaries in Hong Kong and China, but due to the large impact of the coronavirus, overseas business development has stopped for the past few years, so we need to rebuild the flow. There are parts of me that think it's not possible.

This year, I went to Hong Kong once and sorted out banking procedures and other business matters, so I have made preparations to be able to expand my business in the future.

Currently, we are engaged in trading business with overseas countries under such circumstances.

今年は香港にも一度行き 銀行手続きなどの業務を整理してきましたので、 また事業は展開できるような 下準備はしてきましたので今後の展開もできます。

現在はそのような状況で海外との貿易事業ということを行っております。

 

 

2022年ー現在 スリランカ 文部省 職業訓練庁 特命大使 スリランカ コロンボ|2022-Present Ambassador-at-Large, Vocational Training Agency, Ministry of Education, Colombo, Sri Lanka

2020年の話になりますが 海外との色々な事業を展開しようと思い インターネットなどを経由し 世界情勢についていろいろ調べてきました。

その中で 国際金融におけるビジネスを展開していたのですがそういうことを行っているうちにいろいろな人脈もできました。

その中で これはある 知人からの紹介だったのですが スリランカの友人ができて、スリランカの友人がスリランカ政府 文部省の職業訓練庁の長官となりましたので日本との繋がりを持ちたいということで 依頼が来ました。

スリランカの人材を日本の企業で仕事ができるようなネットワークを形成したいということもありましたのでそのようなお手伝いをして欲しいということでいろいろ 交渉した結果 職業訓練庁の特命 大使としての資格をもらいました。

スリランカに関して言えば政府が財政破綻したということで 非常に困難な状況になっているということです。

割合 親日の国家で 日本に対する印象が悪くないという国 ということです。

日本とは サンフランシスコ講和条約以降 一番初めに国交が回復した国として長期間 日本とスリランカの関係は保持されているということです。

日本語教育についてもある程度は熱心に行われています ただ 英語圏であるので 彼らの出稼ぎ先は多くは 英語圏になります。

産業の発展のために 日本企業の誘致や 日本企業で働きたいというようなニーズも一定数はありますが 最近の若い人は地元からあまり出たくないという人も割合多いようでなかなか 海外まで行って仕事をしたいかということになれば 話が違うようです。

今日って スリランカは希望するのは スリランカの工業区などに日本の企業が進出してもらいそこで働きたいというような若者のニーズが多いということです。

Speaking of 2020, I wanted to develop various businesses overseas, so I did a lot of research on the world situation via the Internet.

During that time, I was developing a business in international finance, and while doing that, I was able to make a lot of connections.

Among them, he was introduced to this by an acquaintance, but he made a friend in Sri Lanka, and the friend in Sri Lanka became the director of the Vocational Training Agency of the Ministry of Education of the Sri Lankan government, so he wanted to have a connection with Japan. So I got a request.

I also wanted to form a network that would allow Sri Lankan human resources to work in Japanese companies, so I asked for help with that, so after various negotiations, I was granted the qualification of a special ambassador for the Vocational Training Agency. Ta.

Regarding Sri Lanka, the government is in a very difficult situation due to its financial bankruptcy.

This means that it is a country that is pro-Japanese and has a good impression of Japan.

Japan is the first country to restore diplomatic relations after the San Francisco Peace Treaty, and the relationship between Japan and Sri Lanka has been maintained for a long time.

They are also enthusiastic about Japanese language education to some extent.Since they are from English-speaking countries, many of their work destinations are English-speaking countries.

There is a certain number of people who want to attract Japanese companies and work for Japanese companies in order to develop industry, but it seems that many young people these days do not want to leave their hometowns, so it is difficult to go abroad to work. When it comes to whether you want to do so, it seems to be a different story.

Today, her Sri Lanka hopes that Japanese companies will move into the industrial zones of Sri Lanka, and that there are many young people who want to work there.

2022年ー現在 Mete財団 アジア日本代表 アンバサダー(国連銀行システム ODA) トルコ アンカラ|2022-Present Mete Foundation Ambassador for Japan in Asia (UN Banking System ODA) Ankara, Turkey

通貨発行に関することが非常に関心があり 長年 調べていたという経緯があります。

そのようなことが影響し 、国際金融についても関心があり 色々と国際情勢について研究をしておりました。

そのようなことを行ってる中で、特殊な金融業界というものを 存在が分かり、その世界と非常に接点を持つことができ 、現在は国際的 非営利財団の公式メンバーとして ODA開発援助に関する事業を展開しています。

現在プロジェクトとして各国 国家 政府に対して財団から100億ユーロの寄付を提供するというプロジェクトを行っています。

これは将来的に国連を中心とした国連 銀行 システムにおける世界 給付金システムを構築するためです。

つまり メテ財団 というのは国連 設立時にアジア 王族 グループから寄付された財源 SRP によってその資産により運営されている財団 ということになり これは 国連 銀行 システムを構築しています。

今、その財団の公式アンバサダーとして世界のすべての国家政府に案内業務を行っています。

 

I have a strong interest in currency issuance and have been researching it for many years.

As a result of this, I became interested in international finance and researched various aspects of international affairs.

While doing this, I came to understand the existence of a special financial industry, and I was able to have a lot of contact with that world.Currently, as an official member of an international non-profit foundation, I am involved in his ODA development assistance work. We are expanding our business.

We are currently working on a project in which the Foundation will donate 10 billion euros to governments around the world.

This is to build a global benefits system in the future based on the United Nations banking system centered on the United Nations.

In other words, the Mete Foundation is a foundation operated by SRP, a financial resource donated by the Asian royal family group when the United Nations was established, and is building the United Nations banking system.

Now, as the official ambassador of the foundation, he provides guidance to all national governments around the world.

2007年 通貨発行権とので出会い 上海、インド、オランダ|2007 Encounters with Currency Issuance Rights in Shanghai, India and the Netherlands

通貨発行権という世界に関心があったということを伝えましたが そのきっかけになるのが2007年にインドのヨガの世界的指導者原理である マハリシ 先生によって実は 伝言がありました。

あなたは通貨発行について調べなさい そして貿易についても行いなさいということを言っていました。

実際のことを言えば 2007年にヨガの組織である マハリシ が率いる TM 瞑想の企業が中国に進出したいということで 、中国進出のコンサルティングの仕事を受けました。

マハリシ先生とは 直接 私の上海のオフィスに電話がかかってきて、 色々と打ち合わせしている中で予言的な伝言も言われました。

この中で、印象に残るのが瞑想を広めてください。というのはよくわかるのですが「 通貨 発行について研究しなさい。」と言われてそこから気になり。そのことについて ずっと研究した結果 現在はそのような業界に関わることができています。

ある意味、 15年くらい前に聞いた話ですか、私とそのような会話をしてその半年後に この世を去りました。

一昨年は 、マハリシ先生が、ビートルズにTMヨガを教えたということで マハリシ 先生の関係する映画が放映されていました。

ある意味 マハリシ先生と直接話した日本人としては数少ない 1人だと思います。

何か見えない世界のつながりというものがあるのでしょう。以心伝心、インスピレーションの世界です。

 

I told you that I was interested in the world of currency issuance rights, but what triggered this was actually a message sent to me in 2007 by Maharishi, the world-renowned leader of yoga from India.

You said to look into currency issuance, and also to look into trade.

In fact, in 2007, he accepted a consulting assignment for his TM meditation company, led by his yoga organization Maharishi, who wanted to expand into China.

Dr. Maharishi called me directly at my office in Shanghai, and while we were having various discussions, he also gave me a prophetic message.

Among these, the one that leaves an impression on me is that you should spread the word about meditation. I understand that, but when I was told to research currency issuance, I started to get interested. She has been researching this for a long time and is now involved in this industry.

In a sense, I heard this story about 15 years ago, and six months after we had that conversation, she passed away.

Two years ago, a movie was aired about Maharishi, who was said to have taught TM yoga to the Beatles.

In a sense, I think he is one of the few Japanese people to have directly talked with Dr. Maharishi.

There must be some kind of invisible connection in the world. It is a world of inspiration and inspiration.

 

2005年中国ビジネス 法然上人の夢枕 日中架け橋の予言 和歌山ー上海|2005 Business in China: The Dream Pillow of Honen Shonin: Prophecy of a Bridge between Japan and China Wakayama-Shanghai

日中の架け橋の予言という話をさせてもらうとこれは確か 2005年頃の話になると思いますが 上海に行って一時帰国した時にあった話です。

これは自分の夢の中で見た話なので、立証することはできませんが 結構不思議な話がありました。

当時 上海でいて 上海で知り合った日本人の会社社長がいました。

 

この方が神戸の人だったのですが定期的にマッサージをしてくれる 祈祷師のおばちゃんが来るので 色々面白い話をするということで 小谷さんも1回来てみたら と言われたので行ってみました。

それで 霊能力があり見えるというおばちゃんの話を聞いて結構面白いなと思うことがあったのですがそのおばちゃん 曰く あなたの家の北側にある何かがあなたを呼んでいるよということを言ったのでうちの実家の北側にあるものといえば うちのお墓があるよと言ったのですが お墓が呼んでるからうちのご先祖さんでも呼んでいるのかな と思いました。

それで その後 和歌山の実家に戻ったのですがその日 不思議なことがありました。

私が仏壇の前で手を合わしているとパッと何かが通った感じがしました。

その時に、「左の仏像の人が来ましたね 」と思ったのです。

それで その後 父親が後ろで話しかけてきて 法然寺の話をされました。

私は今 仏壇の前を見ていると「左側にある仏像がここに来たよ 」と話しているよと父親に言うと父親がちょっと驚いた顔で「その仏像は法然上人です。」といいました。

実は 和歌山県の教育委員会で海南にある法然寺に法然上人が本当に来たかどうかということが話題になっていたそうです。

それで 法然寺の和尚様に頼まれて、その時、私の父親が 和歌山県立図書館の館長をしておりましたので 、「ちょっと歴史の古文書を見て調べて欲しい」と言われたそうです。

そうすると実は面白いことがあり和歌山県立図書館の古文書の中から今まで見つけていなかった文章が見つかり 実は私の一家の墓があるお寺というのは法然寺という寺ですがここに 法然上人が来て本当に建てたということが判明したのです。

それで 、その夜 夢に出てきたことがありました。

法然上人が話しかけてきて「私は 南無阿弥陀仏を学びましたが中国に行ったことがなかったので あなたにいってもらいました。」というのです。

「南無阿弥陀仏を唱えて 日中の平和を祈ってください」ということを言われた記憶があります。

それで 法然上人がそういうので 「私もお金がなかったら中国で長くいられません。」

言うと、法然上人が「分かりました 」と言って消えて行きました。

そこから不思議なことがありました。

翌日 突然 船井総研から連絡がありました。

実は私自身がちょうど 事業を始めるかどうかと思っていた時に 船井総研 のようなコンサルティング会社 作れたら良いなと思っていました。

そう思っていると 船井総研が私のインターネットのホームページを見て 上海で法人を作りたいということで コンサル 事業をしているのですが 美容室を開く 営業許可書がなかなかおりないので苦労しているという相談でした。

それで私自身の大学時代の友人の親戚が上海の工商局の局長 ということでその人にお願いすれば簡単にできるということが判明しました。

実はそれがきっかけで中国でコンサルティングの事業を始めることになったのですが 船井総研がなかなか 営業許可書がおろすのが難しいということで 、私のビジネスパートナーの親戚を経由してこの手続きをすれば 、たった2週間で営業 許可が出たのです。

これだったら 大手のコンサルティング会社よりも手続きが絶対早い、ということで自分たちで 企業登記をしようということになったのです。

それがきっかけで、いくつもの企業の会社登記をお願いしてるうちに その親戚から言われたのが

「あなたたちは 中国で 法人登記の仕事をしたいのであれば 工商管理局に登録しなさい。」

と言われ それがきっかけで、上海市工商監理局は「企業登記代理」という資格を出してくれました。それで、正式な中国での進出コンサルティングができるようになりました。

確かに、結構たくさんの企業がお客さんで来てくれましたので これある 意味 この仕事というのは法然上人の導きだったかもしれません。

私もそういうこともあり 南無阿弥陀仏の起源が どうなっているのかというのを結構 調べた結果中国のある山寺がその発祥地だと分かり バスや電車を乗り継いですごい山奥に行った記憶があります。

そこは 山西省のめちゃくちゃ 空気の悪いエリアでした。

すごい山の上でしたけどもそこに行ってこんなところから 南無阿弥陀仏が始まったのかと 感無量になった記憶があります。

 

When I talk about the prophecy of a bridge between Japan and China, I think this is a story that happened around 2005, when I went to Shanghai and returned to Japan for a while.

This is a story I saw in my own dream, so I can't prove it, but it was quite a strange story.

I was in Shanghai at the time, and there was a Japanese company president I met there.

 

This person was from Kobe, and a lady who is a shaman who gives massages regularly comes over and she talks about all kinds of interesting things, so Kotani-san also came once and was told that she was there, so I went. Saw.

Then, I heard a story about an aunt who said she had psychic powers and could see, and I thought it was quite interesting. She said something on the north side of your house was calling you. Speaking of things to the north of my parents' house, I said that my grave is there, and since the grave is calling to me, I thought that maybe my ancestors were also calling to me.

So she then returned to her parents' home in Wakayama, but something strange happened that day.

As I was putting my hands together in front of the Buddhist altar, I suddenly felt something pass through me.

At that time, I thought, ``The person with the Buddha statue on the left has come.''

Then her father came up behind her and told her about Honenji Temple.

When I was looking in front of the Buddhist altar, I said to my father, ``The statue on the left is here,'' and he looked a little surprised and said, ``That statue is Honen Shonin.'' I said it.

In fact, the topic of discussion at the Wakayama Prefecture Board of Education was whether or not Honen Shonin really came to Honenji Temple in Kainan.

So I was asked by the priest of Honenji Temple, and since my father was the director of the Wakayama Prefectural Library at the time, he said, ``I would like you to look at some old historical documents and do some research.''

In doing so, something interesting actually happened, and I found a text that I had never found before among the old documents at the Wakayama Prefectural Library.In fact, the temple where my family's grave is located is a temple called Honen-ji, and Honen Shonin came here. It turned out that he had actually built it.

Then, that night, something came to me in a dream.

Honen Shonin approached me and said, ``I studied Namu Amida Butsu, but I had never been to China, so he asked you to go there.''

I remember being told, ``Please chant Namu Amida Butsu and pray for peace between Japan and China.''

As Honen Shonin said, ``If I don't have money, I won't be able to stay in China for long.''

When I said that, Honen Shonin said, ``I understand,'' and disappeared.

Something strange happened from there.

The next day, I suddenly received a call from Funai Research Institute.

Actually, when I was thinking about starting my own business, I thought it would be great if I could start a consulting company like Funai Research Institute.

As I was thinking about this, Funai Souken saw my internet homepage and told me that he wanted to set up a corporation in Shanghai. He runs a consulting business, but he is having a hard time getting a business license to open a beauty salon. The consultation was that

It turned out that I could easily do this by asking a relative of a friend of mine from university who was the director of the Industrial and Commercial Bureau in Shanghai.

Actually, that led me to start a consulting business in China, but Funai Research Institute found it difficult to obtain a business license, so I had to go through the process through a relative of my business partner. The business license was issued in just two weeks.

We decided to register the company ourselves because the process would definitely be faster than at a major consulting company.

This led to my request for company registration for several companies, and one of his relatives told me that

"If you want to do business in China, register with the Industry and Commerce Administration."

Because of this, the Shanghai Industrial and Commerce Supervision Bureau granted him the qualification of ``enterprise registration agent.'' As a result, we are now able to provide formal consulting services for expanding into China.

Indeed, quite a number of companies came to visit us as customers, so in a sense he may have been guided by Honen Shonin to pursue this work.

That's what happened to me as well, so I did quite a bit of research to find out what the origin of Namu Amida Butsu was, and after finding out that the birthplace was a mountain temple in China, he transferred buses and trains and went deep into the mountains. I have a memory.

It was an area in Shanxi province with extremely bad air quality.

It was on top of an amazing mountain, but I remember feeling overwhelmed with emotion, thinking that this was where Namu Amida Buddha began.

 

2002年ー2013年 日本と中国の精神世界、パワースポット巡り 中国と日本|2002-2013 Tour of Spiritual Worlds and Power Spots in Japan and China China China and Japan

日本と中国のパワースポット巡り という話をしたいと思います。

私自身の仏縁というのか一時期 結構 仏教や仏像という世界に関心を持っていました。

日本の多くの仏教家が中国に渡り勉強したという歴史を知り 私自身も 中国に長くいましたので 時間があれば しょっちゅうそのような元日本の僧侶が修行に行ったような中国にある お寺巡りをしていました。

または中国にはいくつかの仏教の秘境や 4大仏教 山と言われるような山々やお寺がありましたのでそういうところもよく回りました。

だいたい 山 寺が多いのですが 、やはり そのような場所に行くとわかるのが 気場と言われているパワースポットであるということが分かります。

なぜそう言えるかというと、 そのような土地 というのはほとんど 山が岩でできています。

岩山 ということになりますが、 岩山が昔から仏教の修行の場として使われていたことが言えます。

ある意味、 これが天然のパワースポット パワーストーンになっているのではないかと考えたわけです。

山東省には 泰山という山がありますが この山に関しては 歴代皇帝が即位式を行った場所として非常に有名です。

その山にも何度も行きましたが 何か パワーを感じる感覚はありました。自身も皇帝パワーについて関心がありました。どうやら、北極星と皇帝というのが、関係あることに気付きました。中国の北京にある紫禁城は、北極星に向けて皇帝が座るようになっているということを聞きました。

その他に 日本の仏教伝来の地として有名な場所として 浙江省にある国清寺という寺があります。

ここのお寺に行けば 毎回お寺の隣のホテルに1泊してくるのですが 、だいたい 変わった夢を見ます。

夢の中で お坊さんが出てきたりするのです。

 

 

I would like to talk about a tour of power spots in Japan and China.

For a while, I was interested in the world of Buddhism and Buddhist statues, perhaps because of my own Buddhist background.

I knew the history of many Japanese Buddhists who went to China to study, and since I myself spent a lot of time in China, I often visited temples in China where former Japanese Buddhist monks had gone to practice Buddhism.

There were also some unexplored Buddhist areas and the four major Buddhist mountains and temples in China, so I often went to those places.

I often visited such places, which were usually mountains and temples, and I could tell that they were power spots called "qiba".

The reason why I can say that is because most of these places are made of rocks.

In a sense, this is a natural power spot.

In a sense, this is a natural power spot, a power stone.

In Shandong Province, there is a mountain called Mount Tai, which is very famous as the place where the coronation ceremonies of emperors have been held.

I have been to that mountain many times, and there was a sense of power there. I myself was interested in the power of emperors. I realized that there is a connection between the North Star and the emperor. I heard that in the Forbidden City in Beijing, China, the emperor sits facing the North Star.

Another famous place where Buddhism was introduced to Japan is a temple called Guoqing Temple in Zhejiang Province.

Whenever I visit this temple, I stay overnight in a hotel next to the temple and usually have a strange dream.

In my dreams, monks appear in my dreams.

It is true that such Buddhist places are power spots and have a lot of spiritual power.

I was interested in this kind of world and visited various places in China. I was interested in this kind of world, so I went to various places in China, and as an extension of that, I searched quite a bit for similar places in Japan.

This was a temporary boom, but it also triggered my interest in power spots, and I bought many power stones, but now they are just for decoration.

確かにそういう風な仏教的な場所というのは パワースポットや 霊的な力が相当あるのでしょう。

このような世界に興味があり 、中国の様々なところにも行きました。 そしてその延長線上で 日本でも同様なところがないかということで 結構色々と探しました。

これは一時期のブームでしたけども それがきっかけで パワースポットに関心を持ちたくさん パワーストーンを買いましたが、今はただの飾り物となっています。