運営者経歴

1973年ー1986年 幼少期(生誕から小学生まで) 和歌山県海南市|1973-1986 Childhood (from birth to elementary school) Kainan City, Wakayama Prefecture

小谷学の半生 – 幼少期から現在まで

このページでは、私自身の半生を振り返り、幼少期から現在に至るまでの記憶をたどりながら紹介していきたいと思います。


幼少期 – 和歌山の小さな町で生まれ育つ

私は和歌山県海南市という、人口約5万人ほどの小さな町で生まれました。この町は和歌山県の北部に位置し、海と山に囲まれた自然豊かな地域です。

和歌山県は県面積の約80%が山地であり、平地が少ないことで知られています。私の育った海南市も例外ではなく、海と山が共存する風景が広がる町でした。ただし、私が生まれたのは海南市の山側だったため、子供の頃は歩いて砂浜へ行くことはできず、海よりも川で遊ぶことが多かったです。

私の家は高台にあり、そこから見下ろすと**貴志川(きしがわ)**という川が流れていました。幼少期の記憶の中では、夏になるとこの川で泳いだことが多く、海水浴の思い出よりも川遊びの思い出の方が強く残っています。


家族の背景 – 公務員一家に育つ

私の家族は、いわゆる公務員家庭でした。

  • :和歌山県庁職員
  • :幼稚園の先生を経て、農協(JA)に勤務
  • 祖母:海南市役所職員
  • 祖父:元海軍職業軍人

私の祖父については、私自身は直接よく知りませんが、家族の話によると、彼は少年兵として海軍に入り、海軍兵学校の教官を務めていたそうです。さらに、戦時中には特攻隊関連の業務にも携わっていたと言われています。

しかし、戦争が終わるとGHQ(連合国軍総司令部)による追及を恐れ、約10年間消息を絶っていたと聞かされています。家族の話では、彼はおそらく九州の炭鉱などで身を隠しながら働いていたのではないかと言われています。戦後、祖父はあちこちを転々としながら複数の家庭を持っていたため、私の父の「いとこ」にあたる人物がどこにどれだけいるのか、実はよく分かりません。こうした事情もあり、私の家系はやや複雑です。


幼少期の生活 – 父の不在と家庭環境

私の父は典型的な仕事人間で、ほとんど家にいることがありませんでした。そのため、家では母と祖母が中心となって私を育てました。ただ、家庭内の関係はあまり良好とは言えず、家族が一丸となって団らんするような雰囲気は少なかったと記憶しています。

とはいえ、生活に困ることはなく、衣食住には不自由しない環境で育ちました。幼少期は特に大きな問題もなく、比較的穏やかな日々を過ごしました。


学童期 – 和歌山の公立学校で過ごす

幼稚園時代
私は地元の公立幼稚園に通いました。特に特徴のある幼稚園ではなく、**「れんげ組」「すみれ組」**のようなごく普通のクラス編成の幼稚園でした。

小学校時代(中野上小学校)
幼稚園卒業後、私は地元の公立小学校である中野上小学校に進学しました。私の時代は団塊ジュニア世代ということもあり、同級生は70~80人ほどいました。クラスは2つに分かれており、2年ごとにクラス替えがあったと記憶しています。

低学年の頃の記憶はあまり残っていませんが、5年生頃からの記憶は比較的鮮明です。ちょうどその頃、私は反抗期を迎え、学校の先生に対して反抗的な態度を取るようになりました。

小学校6年生 –「悪ガキ」時代のピーク
小学校6年生の頃には、私はいわゆる**「問題児」となり、学校でかなり目立つ存在になっていました。当時、クラスには特に悪名高い「3人組」**が存在し、私はその中心メンバーの一人でした。

先生に対して反抗することも多く、私たちの学級崩壊が原因で、担任の先生が転勤になってしまいました。今振り返ると、かなり無茶をしていたなと反省しています。その先生には、きっと恨まれていることでしょう…。


スポーツの思い出 – 野球部での経験

小学校時代にやっていたスポーツについても触れておきます。

私が育った和歌山の田舎では、スポーツの選択肢がほとんどなく

  1. 野球部に入る
  2. サッカー部に入る
    の2択しかありませんでした。

私は当時、サッカーにはあまり興味がなかったことと、ちょうど阪神タイガースが20数年ぶりに優勝した年だったこともあり、特に深く考えずに野球部に入部しました。

しかし、私が所属した野球部は非常に弱小チームでした。
地元には6つの小学校がありましたが、私の学校はほぼ毎回1回戦敗退。近隣の亀川小学校と**「どちらが最弱か」**を競うレベルのチームでした。

試合に負けても特に悔しがる選手はおらず、唯一キャプテンを務めていたキャッチャーだけが涙を流していました。他の部員は無反応という、何ともやる気のないチームでした。

こうして、私の小学校時代のスポーツ経験はあまり華々しいものではなく、青春ドラマのような熱いストーリーもありませんでした。


次のステップ – 中学校への進学

小学校時代はやんちゃな少年でしたが、そのまま地元の公立中学校へ進学しました。中学校生活では、また新たな経験や成長がありました。その詳細については、次の章で紹介したいと思います。


続く…

1986年ー1989年 中学時代 (和歌山県海南市 東海南中学校)|1986-1989 Junior high school years (Higashi-Hainan Junior High School, Hainan-shi, Wakayama)

中学時代の思い出 – 東海南中学校での3年間

このページでは、私の中学時代の記憶をたどりながら、当時の経験や学びについて紹介したいと思います。


地元の公立中学校へ進学 – 東海南中学校

私は地元の東海南中学校に進学しました。この学校は、和歌山県海南市にある田舎の公立中学校です。校舎の隣には川が流れており、自然が豊かで穏やかな環境にありましたが、周囲には特に何もないような場所でした。

小学校時代は野球部に所属していましたが、中学に進学するとともに陸上部へ転向しました。


陸上部への転向 – 投てき種目に挑戦

小学校の頃から体格が良かったため、中学では個人競技に挑戦したいと思い、野球部ではなく陸上部に入部しました。中でも私が選んだのは**投てき種目(砲丸投げ・円盤投げ)**です。

集団スポーツよりも自分の力を試せる個人競技の方が向いていると考え、投てきの練習に全力を注ぎました。


荒れていた学校 – 「ヤンキー全盛期」の時代背景

私が中学1年生だった当時は、ビーバップハイスクールヤンキー文化が全盛期の時代でした。その影響もあり、地元にはいわゆる「やんちゃな先輩」が多く、学校はしょっちゅう荒れていました

今振り返っても、**「こんな中学生、本当にいたのか?」**と思うほど、手のつけられないような生徒がたくさんいたように思います。


筋トレに目覚める – 生存戦略としての身体強化

当時の中学校はまるで『北斗の拳』のような世界で、喧嘩に弱いと生き残れないような雰囲気がありました。そのため、私は「とにかく体を鍛えるしかない」と考え、ウエイトトレーニングにのめり込むようになりました。

もともと投てき選手として体を鍛える必要があったのですが、実際には地元で喧嘩に負けないために筋トレをしていたという側面もありました。

私の後輩には、砲丸投げの選手から地元の“有名な喧嘩自慢”になった人物もいました。彼は、「あの時、体を鍛えたおかげで、誰にも負けなくなった」と自慢していました。

ちなみに私は陸上部のキャプテンを務めていましたが、**「とにかく筋肉を鍛えろ!」**と部員に言い続ける、少し変わったキャプテンだったと思います。

陸上競技に関する情報誌として**「陸上マガジン」があったのですが、途中から「ボディビルマガジン」**に読む本を変え、筋トレばかりに夢中になっていました。


生徒会長としての活動 – 「恐怖政治」の体育祭運営

私の中学時代は、単なる「問題児」というだけではなく、意外にも生徒会長にも立候補し、当選しました。

とはいえ、私自身が真面目な生徒というわけではなかったため、生徒会活動のスタイルも少し異なっていました。例えば、体育祭の運営を学校の悪ガキたちに任せるという手法を取りました。

結果として、彼らが仕切ることで驚くほどうまく運営でき、先生たちからも評価されました。ただ、実態は「恐怖政治」に近かったかもしれません…。

この経験を通じて、集団を統率するには「強いリーダーシップ」が重要だということを学びました。人生における成功体験のひとつだったかもしれません。


学業 – 「問題児」だけど成績は優秀

学校では喧嘩をしたり問題行動を起こすことも多かったのですが、成績は意外と良かったです。その理由は、進学塾に週6日通っていたためでした。

そのおかげで全国模試でも良い成績を収めており、学年でも上位に入ることができました。

この経験を通じて、中学時代に学んだのは、**「結果を出せば文句は言われない」**という現実でした。


教師の対応 – 「成績が良ければ許される」大人の矛盾

中学時代、私は**先生にとっては「問題児」**でしたが、成績が学年5位以内に入っていたため、先生たちは私に対してあまり厳しく叱ることはありませんでした。

先生たちは、成績が悪い生徒に対しては「だからお前はダメなんだ」と怒るのに、**成績が良い生徒に対しては「お前は理解できるだろう」**とだけ言って特に問題視しない。

この矛盾した対応を目の当たりにし、私は**「結局、社会は結果重視であり、結果さえ出せば許される」**ということを子供ながらに学びました。


中学時代のまとめ – 荒れた学校の中で学んだこと

1. 個人競技の強みを知る

  • 野球から陸上の投てき競技へ転向し、自分の力を試せる個人競技の魅力を学んだ。

2. 身体を鍛えることの重要性

  • 喧嘩に負けないために筋トレにのめり込む。結果として、競技にも生かされた。

3. 集団を統率するリーダーシップ

  • 生徒会長として体育祭を恐怖政治で運営し、組織をまとめる力の大切さを学ぶ。

4. 結果を出せば許される社会の現実

  • 問題児だったが、成績が良かったため、先生たちからはあまり咎められなかった。
  • 「結果がすべて」という現実を実感する。

次のステップ – 高校時代へ

中学時代は、やんちゃな部分も多かったですが、スポーツや学業、リーダーシップといった面での学びも多い時期でした。

この経験を経て、私は近畿大学附属和歌山高等学校へ進学することになります。

高校生活では、さらに新しい挑戦や経験が待っていました。その詳細は、次の章で紹介していきたいと思います。


続く…

1989年-1992年 高校時代 和歌山県和歌山市 近畿大学付属和歌山高等学校|1989-1992 High School: Wakayama High School attached to Kinki University, Wakayama City, Wakayama Prefecture

高校時代 – 進学校での挑戦と新たな選択

高校時代の記憶をたどりながら、学業や部活動、そして進学に至るまでの過程について振り返っていきたいと思います。


進学校への進学 – 近畿大学附属和歌山高等学校

私は近畿大学附属和歌山高等学校に進学しました。田舎の私立高校ですが、地元では進学校として知られ、「現役で国立医学部を目指せ」という教育方針のもと、難関大学を目指す生徒が多い環境でした。

高校入試では、約2000人の受験者の中で上位25位という成績で合格し、最も学力の高い「アドバンスクラス」に入りました。このクラスは国公立大学を目指す生徒のための特別クラスで、集まっているのは各中学校で成績優秀だった生徒ばかりでした。


進学クラスでの苦悩 – 遊んでいては勝てない世界

それまでの私は、努力すれば勝てるという感覚を持っていましたが、進学校のトップクラスに入ると、それだけでは通用しない世界が待っていました。

クラスメイトは、地元の和歌山県内だけでなく、大阪南部などの進学塾で鍛えられた優秀な生徒たちでした。もはや「遊びながら勉強する」というスタイルでは勝てず、本格的に学問と向き合わざるを得ませんでした。

私自身、医学部を目指せるほどの成績ではありませんでしたが、「現役で国立大学に合格する」ことを目標にしていました。結果的に、大学は**東京商船大学(現在の東京海洋大学)**を選ぶことになります。


高校生活 – 校則が厳しい環境での挑戦

近大和歌山高校は、私立ということもあり、校則が厳しい学校でした。中学時代のように校内で暴れることはなかったものの、一度だけ図書室で先生と取っ組み合いの喧嘩をしてしまい、「退学になるかもしれない」という状況に追い込まれたことがあります。

しかし、この時私は生徒会長を務めていたため、先生方の間でも「生徒会長を退学にさせるわけにはいかない」という意見があり、結果的に退学は免れました。

この出来事以外には、大きな問題を起こすこともなく、比較的落ち着いた高校生活を送っていました。


陸上部での活動 – 投てき競技とウェイトトレーニング

高校でも陸上部に所属し、砲丸投げを続けました。しかし、実際には投てきよりもウェイトトレーニングに夢中になっていました。

全国大会で活躍していた体育の先生には、「人間は力だけではない」と言われましたが、当時の私は筋力を鍛えることこそが最も重要だと信じ、ひたすらトレーニングに励んでいました。

結果的に、砲丸投げでは県大会で入賞するレベルにまで成長しました。


進学の決定 – 東京商船大学への道

高校3年生の進路決定の時期に、私の親から「現役で国立大学に入学したら車を買ってあげる」と言われ、その言葉に惹かれて現役合格できる国立大学を探しました。

最終的に選んだのは、**東京商船大学(現・東京海洋大学)**でした。

東京商船大学を選んだ理由

  1. 祖父が海軍で活躍していた影響
    • 幼い頃から祖父の話を聞いていたため、海の世界に興味があった
  2. 理系の成績は良かったが、研究者には向いていないと感じた
    • 実験室でフラスコを振るような研究者の道は自分には合わないと考えた。
    • 少し変わった分野を学びたいという思いがあった。
  3. 船舶や海運の世界に興味を持った
    • 進路を考える中で、海運業界や船舶の運航に関する学問に興味を持ち、この大学を選択。

高校時代を振り返って – 学びと成長

① 競争の厳しさを知る

  • 進学クラスでの競争は激しく、「努力だけでは勝てない世界」があることを学ぶ。

② 校則と反発のバランス

  • 校則の厳しい私立高校で、一度問題を起こすも、生徒会長としての立場が退学を免れる要因になった。
  • 立場があることで守られることもある」という社会の仕組みを学んだ。

③ 体力づくりとウェイトトレーニング

  • 陸上部で投てき競技を続けつつ、筋力強化にのめり込む
  • 砲丸投げで県大会入賞レベルに到達。

④ 進学への柔軟な選択

  • 医学部を目指す同級生が多い中、自分は現役合格できる国立大学を選ぶことを優先。
  • 祖父の影響や、海運業界への興味から、**東京商船大学(現・東京海洋大学)**へ進学を決定。

次のステップ – 大学生活と新たな挑戦へ

高校時代を通して、私は学業・部活動・リーダーシップ・進学の選択など、多くのことを経験し学びました。そして、次のステップとして東京商船大学での大学生活が始まります。

次の章では、大学時代に学んだことや新しい経験について詳しくお話ししていきたいと思います。


続く…

1992年-1997年大学時代 東京商船大学 商船学部 航海学コース 東京都江東区ー江戸川区|1992-1997 University years Tokyo University of Mercantile Marine, Faculty of Merchant Marine, Nautical Science Course, Koto-ku - Edogawa-ku, Tokyo, Japan

大学時代 – 上京、アルバイト、そして中国との出会い

私は和歌山の田舎から東京の大都会に上京し、大学生活をスタートさせました。
初めは右も左も分からず、東京での生活に慣れるのに時間がかかりましたが、この時期に経験したことが、その後の人生に大きな影響を与えることになります。


東京での生活 – 初めての都会暮らし

高校時代、私の同級生の多くは関西の大学に進学しましたが、一部の友人は東京の大学へ進学していました。
そのため、最初の頃は同郷の知人たちと一緒に行動することが多かったです。

私が最初に住んだのは、東京都江戸川区の葛西という場所でした。
東西線の葛西駅から徒歩10分ほどのマンションで、ここから私の東京暮らしが始まりました。


大学生活 – 学業よりもアルバイトに明け暮れる

大学時代の思い出を振り返ると、学業よりもアルバイトに時間を費やしていたことが印象に残っています。

葛西に住んでいたため、近場でできるアルバイトを探し、飲食店を中心にいくつかの仕事を経験しました。

主なアルバイト経験

  • 居酒屋・串カツ屋 – 賄い(まかない)が出るので食費を節約できた
  • ドーナツ屋(現在の吉野家D&C) – 店長に「アルバイト店長にならないか?」と言われるほど真剣に働いた
  • 宅配ピザ・弁当屋 – 料理や配達業務を経験

特にドーナツ屋では、相当気合を入れて働いていたため、店長から昇格の話を持ちかけられるほどでした。


中国人留学生との出会い – 興味を持つきっかけ

大学生活で最も影響を受けたのは、中国人留学生たちとの出会いでした。

私は子供の頃、父が日中国交正常化後の「友好の船」プロジェクトで、中国を訪れた話をよく聞いていました。
この影響もあり、私は中国に行ったことはなかったものの、いつか行ってみたい国の一つと考えていました。

当時の中国(1990年代前半)は、まだまだ経済発展が進んでおらず、貧しい時期でした。
日本に正規留学している中国人学生たちも、決して裕福な家庭の出身ではなく、必死に勉強していました。

しかし、彼らの多くは非常に優秀な人材であり、
「こんなに優秀な人がいるのに、なぜ中国はまだ貧しいのか?」
という疑問を抱くようになりました。

中国人の学生に話を聞くと、

「中国は国家の体制によって、若者がチャンスを掴みにくい。だから海外に出るしかない。」

と言っていました。

さらに、中国の社会構造についても知ることになります。

  • 家系(出身階層)がすべてを決める
    • 生まれた家のバックグラウンドによって、将来が決まる
    • いい家に生まれれば良い人生が待っているが、そうでなければ努力しても報われない
  • 海外に出ることが人生を変える唯一の方法
    • 国内での競争に勝てない場合、海外留学や移住が人生の選択肢になる

この話を聞いて、「中国という国は一体どんな国なのか?」 という興味が一気に強まりました。


天安門事件と留学生たちの背景

ちょうど私が大学にいた頃は、天安門事件(1989年)から数年後の時期でした。
中国人留学生の中には、天安門事件に実際に参加したという人もいました。

ある留学生は、

「学生運動の際、国鉄が支援してくれたから、無料で電車に乗って北京まで行けた。」

と語っていました。

しかし、その後の大規模な弾圧を目の当たりにし、「このままでは未来がない」と考え、海外へ逃れた人も多かったそうです。

こうした話を聞いて、中国という国の複雑さを実感し、さらに興味が深まっていきました。


中国留学を決意 – 日中友好協会との出会い

中国人留学生との交流を続けるうちに、「自分も中国をこの目で見てみたい」という気持ちが強くなりました。

ある日、大学の学生課の前を歩いていた時
日中友好協会 – 中国の大学に留学しませんか?
という掲示板を偶然見つけました。

興味を持ち、すぐに電話して問い合わせた結果、上海に留学することを決めました。

どの大学がいいのか分からなかったのですが、

  • 「上海なら楽しい学生生活が送れるだろう」
  • 「男ばかりの学校より、女子が多い大学の方がいい」

という単純な理由で、上海師範大学を選びました。


中国ビジネスへの興味 – 小さな輸入代行ビジネス

また、大学時代に中国人の友人と協力して、個人輸入代行業を始めたことも、中国ビジネスへの関心を深めるきっかけになりました。

日本で手に入りにくい中国の商品を仕入れ、販売するという小規模なビジネスでしたが、
この経験が、後の貿易コンサルティングの仕事へとつながることになります。


大学時代を振り返って – 学業よりも現場で学ぶ

私の大学時代を一言でまとめると、**「学業よりも実践で学んだ時期」**でした。

  • ① アルバイトを通じて労働の大切さを学ぶ
    • 居酒屋、ドーナツ屋、宅配ピザなどの経験を積み、社会の仕組みを理解する
  • ② 中国人留学生との交流で国際的な視野を得る
    • 留学生の話から、中国の社会問題や経済構造を知る
  • ③ 実際にビジネスを始める経験を積む
    • 個人輸入代行業を通じて、貿易の基礎を学ぶ
  • ④ 直感で中国留学を決める
    • 掲示板を見て即行動し、上海師範大学への留学を決意

こうして、大学時代は学業よりも、現場での経験を重視した時間となりました。


次のステップ – 中国留学へ

そして、いよいよ次のステップとして、私は中国・上海へ留学することになります。

  • 中国の実情を自分の目で確かめる
  • 言語を学び、中国での生活を体験する
  • さらにビジネスの視点を深める

次の章では、**「中国留学での生活と学び」**について詳しくお話ししたいと思います。


続く…

1997年ー1999年 上海留学時代 上海師範大学 |1997~1999 Shanghai Study Abroad Era Shanghai Normal University

上海留学時代 – 言葉よりも経験で学んだ2年間

大学時代に出会った中国人留学生の影響を受け、私は上海師範大学に留学しました。
この2年間は、単なる語学学習ではなく、中国という国を体験し、現地の文化を深く知る時間となりました。


なぜ上海師範大学を選んだのか?

日本の大学在学中に中国留学を決めた際、どの大学に行くべきか悩んでいました。
そんな時、中国人の友人に「上海で留学するならどの大学がいい?」と聞いたところ、

俺だったら上海師範大学に行くね。

という即答が返ってきました。

理由を聞くと、**「女性の割合が非常に多いから」**とのことでした。

私が通っていた東京商船大学(理系・船の大学)は、男子ばかりの環境だったため、せっかくの留学なら女性が多い学校の方が面白そうだと思い、迷わず上海師範大学を選択しました。

この選択は、ある意味で直感的なものですが、結果的に中国語を学ぶ環境としては最高の場所となりました。


上海での留学生活 – 言語習得の「独自メソッド」

留学の目的はもちろん中国語の習得でしたが、教科書だけでは身につかないことも多く、私は**「実践の場で学ぶ」**という方法を選びました。

① 毎日ナンパして中国語を学ぶ

「中国語を早く話せるようになるためにはどうすればいいか?」と考えた結果、
**「現地の学生と友達になればいい」**という結論に至りました。

そこで私は、毎日大学の正門で学生の女の子をナンパし、とにかく会話の機会を増やすことを実践しました。

ナンパをしていると、フランス人の留学生が興味を持ち、

「お前たちは何をしているんだ?」

と聞かれ、私が「中国語を学ぶためにナンパしている」と答えると、

「じゃあ俺も混ぜてくれ!」

と言われ、ここで国境を越えた友情が芽生えました。

② 夜の街で中国語を鍛える

日中はナンパで会話を練習し、夜は日系のカラオケバーやナイトクラブへ行き、さらに実践を重ねました。

こうして、私は99%遊びながら中国語を習得しました。
貿易やビジネスの専門用語は、たった100語程度を覚えるだけで十分でしたが、
その他の会話力は、夜遊びの中で磨かれたと言っても過言ではありません。

結果的に、私は**「遊びを通じて中国語を学ぶ」という独自メソッド**を確立しました。


ダークな中国 –「表の顔」と「裏の顔」

留学中、私は上海という都市の表の部分だけでなく、裏の世界にも足を踏み入れました。

  • 怪しいナイトスポット
  • 裏社会のネットワーク
  • インターネットでは書けないようなディープな中国

こうした場所に出入りしていると、現地の中国人からも「お前たち、よくそんな所に行くな」と言われることが増えました。

この経験を通じて、中国の光と影の両方を見ることができたのは、私にとって貴重な学びでした。


中国国内の旅 – 本物の中国を見る

私の留学生活は、上海だけにとどまりませんでした。

中国国内を旅しながら、都市部と地方の違い、発展と遅れのギャップを肌で感じました。

① 中国の内陸部へ – バスと電車で旅する

留学中、何度も中国の地方都市や農村を訪れました。
鉄道や長距離バスを使い、**都市部とは違う「本物の中国」**を見て回りました。

② 海南島で1ヶ月滞在 – ベトナム国境近くの体験

中国南部、ベトナム国境に近い海南島という場所にも滞在しました。
ここでは、また違った中国の文化や生活スタイルを体験することができました。


中国ビジネスへの興味 – 初めての輸入代行ビジネス

留学中、私は「どうすれば中国と日本をつなぐビジネスができるのか?」を考え始めました。

そして、中国人の友人と協力し、個人輸入代行業を始めました。

  • 日本では手に入らない中国の商品を仕入れ、日本で販売
  • 小さなビジネスを通じて、貿易の仕組みを学ぶ

これは単なる「お小遣い稼ぎ」でしたが、この経験が、後に貿易コンサルティングを始めるきっかけとなります。


留学のまとめ – 遊びながら学び、未来へのヒントを得る

私の中国留学を一言でまとめると、**「遊びながら学んだ2年間」**でした。

  • ① 中国語は「実践の場」で学ぶのが一番
    • 正門でのナンパ、夜のカラオケ、現地の人との交流を通じて自然に習得
  • ② 中国の表と裏を知る
    • 上海の華やかな都市部だけでなく、ダークな世界にも足を踏み入れた
    • 現地の中国人すら「お前、そんな所に行くのか?」と驚くほど
  • ③ 本物の中国を旅して体験する
    • 都市部と地方のギャップを肌で感じ、中国の真の姿を知る
  • ④ 小さなビジネスを通じて、中国ビジネスの可能性を感じる
    • 個人輸入代行を始め、貿易の基礎を学ぶ

こうして、私は中国をより深く理解し、「中国で生きる」「中国でビジネスをする」ことを真剣に考え始めました。


次のステップ – 留学を終え、就職活動へ

約2年間の留学を経て、私は日本へ帰国することになります。

しかし、この経験を通じて、私は**「ただのサラリーマンになるつもりはない」**と強く思うようになりました。

帰国後の就職活動、そして最終的に起業へと進む道について、次の章で詳しくお話ししていきます。


続く…

1999年-2000年 社会人 (株)トランス・コスモス時代 大阪支店|1999-2000 Member of society transcosmos inc.

社会人としての第一歩 – トランスコスモスでの経験

大学を卒業し、私は社会人としての第一歩を**「トランスコスモス株式会社」で踏み出しました。
この会社は、東証一部上場のITソリューション企業であり、私の出身地である
和歌山県発祥の企業**でもあります。


なぜトランスコスモスを選んだのか?

実は、私の父親が和歌山県庁でIT関連の責任者を務めていました。
その影響もあり、**「IT業界なら将来性がある」**と考え、トランスコスモスへの就職を決めました。

さらに、父からも**「コネクションがあるから話を通してあげるよ」**と言われ、
実際にそのルートを活用して入社したという経緯もあります。


IT企業でのスタート – 開発部門で学んだこと

入社後、私は**「小谷さんはコンピューターに強そうだから、開発部門に行ってください」と言われ、
最初は
IT開発部門**で働くことになりました。

開発部門での主な業務

  • パソコンを使ったインターネット関連の研究
  • ホームページ制作の基礎を学ぶ
  • ITシステムの基本的な開発

この時に習得した知識は、後のビジネスでも大いに役立ちました。
特に、ホームページの作成技術については、この時に学んだ基礎が、現在でも活用されています。

実際、今でも私は自分のビジネスのホームページを全て自作しています。


開発の仕事がつまらない… → 営業部門へ転向

開発部門で働いているうちに、私は**「ずっとパソコンと向き合っているだけではつまらない」**と感じるようになりました。

そこで、和歌山支店長に直接相談し、**「もっと人と関わる仕事がしたい」**と希望を伝えました。
その結果、営業部門へ異動することになりました。

営業部門では、ITソリューションを提案する仕事を担当しましたが、「中国で仕事をしたい」という目標があったため、
「いつ中国に派遣されるか分からない」という状況に不安を感じるようになりました。


次のステップへ – 中国進出のために退職を決意

トランスコスモスでの経験は、ITスキルや営業の基礎を学ぶ上で非常に有意義でしたが、
**「このままでは、中国で働くチャンスを得られないかもしれない」**と考え、
次のキャリアに進むために退職を決意しました。

こうして私は、中国での仕事に向けた新たな挑戦を始めることになります。


次のステップ – 中国でのビジネスキャリアの始まり

トランスコスモスを退職した私は、次に**「中国でビジネスをする」**という目標に向かって動き始めます。

次の章では、どのようにして中国でのキャリアを築いていったのかについて詳しくお話ししていきます。


続く…

2000年―2001年 社会人 NTTコミュニケーション時代|2000-2001 Working years NTT Communications Era

NTTでの営業経験 –「国営企業ブランド」の強さを実感

トランスコスモスを退職後、私は中国で仕事をすることを目標としていました。
しかし、すぐに中国に行ける仕事は見つからなかったため、つなぎの仕事としてNTTの営業職を選びました。


NTTでの仕事内容 – マイライン登録の営業

当時、日本の通信業界では電話回線の民営化が進んでいました。
その一環として、総務省の方針により、NTTの独占が崩れ、KDDI(旧・第二電電)や他の通信会社が市場に参入していました。

これに伴い、NTTユーザーに対して、
引き続きNTT回線を利用するには、確認のための登録(マイライン登録)が必要です
という営業活動が行われていました。

私はこの**「マイライン登録」**の営業担当として、一時的にNTTで働くことになりました。

営業活動の実態

基本的にやることはシンプルで、NTTの既存ユーザーを訪問し、マイライン登録の確認をするだけの仕事でした。

  1. NTTの顧客(法人)を訪問
  2. 「こんにちは、NTTです。マイライン登録の確認に伺いました」
  3. 「現在NTTをお使いですが、継続するには確認の登録が必要なので、ハンコをお願いします」
  4. 契約完了(成約)

これを毎日繰り返していました。


NTTブランドの強さを実感 – 「名前だけで営業が成立する」

この仕事をしていて驚いたのは、NTTのブランド力の圧倒的な強さです。

  • 「NTTです」と言うだけで、誰もが話を聞いてくれる
  • 特に田舎では、「NTT以外の選択肢がある」ということ自体を知らない法人が多かった

そのため、私は特に苦労することなく営業成績を上げることができ、
一時期は全国表彰されるほどの営業成績を記録しました。


田舎の情報格差を実感 – 「競争のない市場での営業の楽さ」

私が営業を担当していたのは、和歌山県の田舎でした。

都会ではすでにKDDIや他の電話会社の存在が知られており、顧客も「どこの回線が安いか?」を比較するのが当たり前になっていました。
しかし、田舎ではそうした情報がほとんどなく、**「電話といえばNTT」**という認識が根強く残っていました。

  • 都会:「KDDIや他の会社も検討したい」→ 営業が難しい
  • 田舎:「NTTが来たなら間違いない」→ 営業が簡単

この情報格差の大きさを目の当たりにし、**「やはり半ば国営企業のブランド力は強い」**と痛感しました。


NTTでの経験から学んだこと

  1. ブランドの力は絶大
    • NTTのように、圧倒的な知名度を持つ企業は「営業の手間が省ける」
    • 名前を言うだけで、信頼され、契約につながる
  2. 情報格差がビジネスに与える影響
    • 田舎では、情報の少なさが企業の意思決定に大きく影響する
    • 競争がない市場では、営業の成功率が高くなる
  3. 営業スキルを磨く重要性
    • シンプルな営業でも、やり方次第でトップセールスになれる
    • どう話せば相手が納得するかを学ぶことができた

次のステップ – いよいよ中国へ

NTTでの仕事は、**あくまで中国進出のための「つなぎ」**でした。
そして、この経験を経て、ついに中国で働く道を見つけることになります。

次の章では、
「中国での最初の仕事」「どのように中国ビジネスを始めたのか」
について詳しくお話しします。


続く…

2001年ー2002年 中国上海社会人 (株)中国塗料(東証プライム企業)時代 中国上海|2001-2002 Shanghai, China, working for China Paint Co.

中国での社会人キャリアのスタート – 上海での挑戦

ついに私は、中国での社会人生活をスタートさせることができました。
日本の東証一部上場企業である**中国塗料(Chugoku Marine Paints)**の上海現地法人に就職することになったのです。


なぜ中国塗料に就職できたのか?

ある日、日本の人材スカウト会社から連絡がありました。

「小谷さんは東京商船大学の航海学科出身で、しかも中国に留学していたので、あなたのような人材を求めています。」

私は大学時代、ほとんど船には興味がなかったのですが、この話を聞いて、
船の大学は特殊な世界で、学閥が非常に強い」ということに気付きました。

東京商船大学(現・東京海洋大学)は、「船舶業界の東大」とも言われ、歴史的にも三菱商船学校から続く日本の海運業界を支えてきた学校です。
そのため、業界内では卒業生のネットワークが強力でした。

実際、船舶関係の仕事で船舶の監督や管理業務をしている人の多くが私の大学の先輩でした。
彼らはキャプテンを経験した後、船舶会社の管理部門に進み、船の修繕や管理を担当することが多かったのです。

つまり、**「先輩・後輩の関係」**がビジネスに直結する世界だったのです。


仕事の実態 – 船舶塗装の現場

私が担当したのは、船舶の塗装に関する営業および管理業務でした。
具体的には、

  • 造船所を回り、塗料の販売
  • 船の修繕・新造時の塗装管理
  • 現場監督として塗装作業のチェック

特に船底の塗装作業では、シンナーを大量に使用するため、非常に危険な環境でした。
狭い空間に入り込み、塗料を塗る作業は健康にも悪影響があることを肌で感じました。


学閥の力 – 先輩との関係がビジネスに影響

この業界では、東京商船大学の卒業生というだけで信頼を得やすいというメリットがありました。
実際、お客さん(船舶関係者)からは、

「おお、君も商船大か!

という形で親しみを持たれ、ビジネスがスムーズに進む場面も多くありました。

しかし、同じ会社の上司や先輩社員からは逆に反感を買うこともありました。

  • 「コネで仕事を取っているように見える」
  • 「生意気な後輩だ」と思われる
  • 「結果を出しているのに納得いかない」と言われる

こうした不満が積もり、最終的には先輩たちと対立する形になり、会社を退職することになりました。


退職の決断 – 仕事の危険性と人間関係

退職を決めた理由は、大きく2つありました。

① 仕事環境の過酷さ

  • 塗料のシンナーを大量に使用するため、健康へのリスクが高い
  • 船底の塗装作業は、密閉空間での作業が多く、危険

この仕事を長く続けるのは無理だ」と判断しました。

② 人間関係の難しさ

  • 先輩後輩の関係が強すぎて、仕事の成果よりも「社内の立ち位置」が重視される
  • **「成果を出しても評価されない」**ことにストレスを感じる

このままここにいても、成長の機会は少ない」と考え、次のステップへ進むことを決意しました。


中国塗料で学んだこと

  1. 業界の学閥の強さを実感
    • 特殊な業界では、卒業した大学の影響力が絶大
    • 学閥が強いと、ビジネスがスムーズに進むメリットもあるが、逆に足かせになることもある
  2. 仕事の過酷さと健康リスクを考える
    • **「仕事環境が悪いと、いくら待遇が良くても続かない」**という現実を知る
    • 危険な現場作業は、長く続けるべきではないと判断
  3. 人間関係の難しさを学ぶ
    • 会社の中では、単に成果を出せば評価されるわけではない
    • **「先輩・後輩の関係」**が、時には足かせになることもある

次のステップ – 独立への道を模索

私は中国でのキャリアを積む中で、**「このまま会社員を続けるのではなく、自分でビジネスをやるべきだ」**と考えるようになりました。

そして次のステップとして、中国での貿易ビジネスに挑戦することになります。

次の章では、

  • 中国での起業準備
  • どのようにして独立したのか
    について詳しくお話ししていきます。

続く…

2002年ー2003年 上海社会人 外高橋保税区 高砂倉庫時代 中国上海|2002-2003 Shanghai Socialist, Takasago Warehouse Era, Waigaoqiao Free Trade Zone, Shanghai, China

上海での2社目 – 物流倉庫の改革と値上げ交渉の成功

中国でのキャリアの次のステップとして、私は上海の外高橋保税区にある**福岡県の物流倉庫会社「高砂倉庫」**に就職しました。
これは、日本のアパレル企業向けの物流を担う会社であり、私はそこで物流管理・営業の仕事を担当しました。


会社の状況 –「むちゃくちゃな体制」との戦い

入社してすぐに気づいたのは、社内が完全に崩壊していることでした。

問題点

  • チームワークが全くない
  • 社員の仕事意識が低く、ミスが多発
  • 取引先からのクレームや圧力で、営業成績が悪化

つまり、組織として機能していない状態だったのです。
私のミッションは、この崩壊した体制を立て直すことでした。


物流業務の改善 – 4〜5ヶ月で問題を解決

私はまず、チームの結束力を高めることに注力しました。
そして、日本のアパレルメーカーが主要顧客だったため、物流管理を徹底し、ミスを減らす仕組みを整えました。

結果として、4〜5ヶ月で業務の立て直しに成功しました。

具体的な改革

  1. 社内の連携を強化し、役割分担を明確化
  2. 業務マニュアルを整備し、ミスの削減
  3. 定期的なミーティングを実施し、情報共有を強化

これにより、倉庫内のオペレーションがスムーズになり、業務効率が向上しました。


値上げ交渉の成功 –「喧嘩殺法」で勝ち取った利益

さらに、私は取引先との価格交渉にも挑戦しました。

背景

  • 高砂倉庫は赤字状態だった
  • 取引先の部長が圧力をかけ、値下げを強要していた

そこで私は、徹底的に市場調査を行い、近隣の物流倉庫会社の価格データを収集しました。
その結果、我々の価格が相場よりも不当に低いことが判明。

交渉戦略 –「喧嘩殺法」

私は、取引先に対し強気の交渉を仕掛けました。

「明日、お宅の荷物を外に出すか、それとも値上げを受け入れるか、どっちにしますか?」

つまり、

  • 相手が威圧的なら、こちらも引かずに戦う
  • 物流は代替が難しいため、「今すぐ出す」と言われると取引先も困る

この戦略が功を奏し、値上げ交渉に成功しました。

結果として、会社の利益率を向上させることができたのです。


社内改革 –「挨拶と掃除」で職場環境を改善

倉庫作業員のモチベーションが低かったため、私は基本的な習慣を徹底しました。

  • 朝の挨拶を義務化(仕事の意識を高めるため)
  • 倉庫内の掃除を徹底(整理整頓で業務の効率を向上)

最初は反発もありましたが、環境が改善するにつれ、チームの結束力が強まりました。
結果、社内の雰囲気が大幅に良くなり、社員の意識も向上しました。


嫉妬による退職 –「お前もういいから日本に戻れ」

私が改革を成功させたことで、3年間問題を放置していた専務が嫉妬し始めました。

「お前、もういいから日本に戻ってこい」

私は上海で現地採用されていたため、当然、

「なぜ日本に戻るんですか?」

と反論しました。

最終的には、専務との関係が悪化し、喧嘩別れのような形で退職することになりました。


この経験で学んだこと

① 組織改革は、基本から始めるべき

  • 問題の多い職場では、「挨拶」と「掃除」などの基本が重要
  • チームの結束力を高めることで、業務の質も向上する

② 価格交渉では「強気の姿勢」が必要

  • 競争環境を理解し、戦略的に交渉すれば、値上げも可能
  • 相手が強気でも、引かずに対抗することが重要

③ 実力を発揮すると、社内政治の壁にぶつかることもある

  • 結果を出しすぎると、既存の権力者に目をつけられる
  • 社内の嫉妬や権力争いに巻き込まれることがある

次のステップ – いよいよ独立へ

2つの企業での経験を経て、私は**「雇われる側では限界がある」と感じるようになりました。
そこで、ついに
「自分でビジネスを立ち上げる」**決意をすることになります。

次の章では、中国での起業準備、そして貿易ビジネスのスタートについて詳しくお話しします。


続く…

2004年ー2013年 起業創業 上海泉能貿易有限公司時代(SFE貿易) 中国上海|2004~2013 Started business Shanghai Quaneng Trading Co.

2004年 – 上海での起業と中国ビジネス黄金時代

2004年、私は上海の物流倉庫会社を退職し、しばらく何をするか迷っていました。
しかし、**「もう自分で何かをするしかない」**と決意し、ついに起業することにしました。


起業のきっかけ – 初めての貿易ビジネス

起業の最初のきっかけは、上海で知り合ったある日本企業の駐在員からの依頼でした。

「中国のメーカーと取引をして、自動車メーカー向けの金属製ラックを上海の工場で生産したい。」

この案件を手伝うことで、最初のビジネスをスタートさせました。

この企業は上場していませんでしたが、名古屋の大手自動車メーカーに納品する大規模な会社だったため、
取引量が多く、ビジネスは順調に進みました。


ホームページを活用し、顧客獲得へ

最初の取引先は1社だけでしたが、私はすぐに**「もしこの会社が取引をやめたら終わりだ」**と危機感を持ちました。

そこで、新規顧客を獲得する方法を考え、インターネットを活用することにしました。

私はトランスコスモス時代にITを学んでいたので、

  • ホームページの作成
  • ウェブマーケティング

に関する知識を持っていました。


ポータルサイトに広告を掲載 –「顔出しバナー戦略」

当時、上海には日本人向けのビジネスポータルサイトがいくつかありました。
私はそこでトップページのバナー広告を出稿し、知名度を上げる戦略を取りました。

しかも、私は**「顔写真入りのバナー」を掲載**しました。

すると、知り合った商社の人から、

「いや、小谷さん、顔に自信あるんですね(笑)」

とよくツッコまれましたが、海外では「信用がない」のが当たり前です。
「顔を出しておけば、少しでも信用が上がるだろう」と考えた結果の戦略でした。


動画マーケティングの先駆け –「YouTube前夜」に自前で配信

現在では、YouTubeを活用した動画マーケティングは当たり前ですが、2004年当時はYouTubeすら存在しない時代でした(YouTube創業は2006年)。

私は、自前のサーバーに動画をアップロードし、ストリーミング配信を実施していました。

**「中国現地の情報を動画で見られる」**というのは非常に珍しく、これが大きな反響を呼びました。

**特に2006年頃から始まった「上海進出ブーム」**の影響で、日本全国から多くの企業が中国市場に興味を持つようになりました。


中国ビジネスコンサルティングとセミナービジネス

貿易コンサルティング会社として、私は以下の2つの事業を展開しました。

① 貿易コンサルティング業務

  • 中国メーカーに発注し、日本向けに製品を製造
  • コンテナ輸送で日本の工場に納品
  • 現地法人の設立支援(法人登記手続き)

② 中国ビジネスセミナーの開催

  • 日本全国から中国進出を希望する企業をサポート
  • JETROや商工会議所などで講演活動
  • 約3,500社が参加する大規模なセミナー事業

当時は、「中国進出の専門家」としての知名度も上がり、毎週のようにビジネスセミナーを開催していました。


大学での講義 – 北京大学での快挙

中国ビジネスの専門家としての認知が広がる中で、私は大学での講義の依頼も受けるようになりました。

特に印象的だったのが、
**「北京大学のエグゼクティブMBAプログラムで講師を務めたこと」**です。

これは、私自身にとっても非常に感慨深い経験でした。


「卒業論文を却下された過去」との対比

私は大学時代、中国経済に関心を持っていましたが、卒業論文で「中国経済」をテーマにしようとしたとき、教授に却下された過去があります。

「お前は東京商船大学の学生なのに、なぜ中国経済の論文を書きたいんだ?却下!」

結局、**「船舶の揺れによる危険物の爆発リスク」**という、興味もないテーマで論文を書くことになりました。

しかし、その私が、後に北京大学で貿易の講義をすることになったのです。
この瞬間、私は**「やればできるじゃないか」**と自分自身を誇りに思いました。


中国ビジネス黄金時代の終焉

順調に見えた中国ビジネスでしたが、2012年に転機が訪れました。

2012年 – 尖閣諸島の漁船衝突問題

この事件をきっかけに日中関係は一気に悪化しました。

同時に、中国政府の規制も厳しくなり、

  • 日本企業の進出が減少
  • 中国ビジネス環境が悪化

という状況になりました。


上海から東南アジアへ – 新たな展開へ

私の周りでも、多くの日本人経営者が**「ベトナムなど東南アジアに移住」する流れが加速しました。
結果として、
「上海ビジネスの魅力」が大きく低下**していきました。

これを受け、私は新たな地域でのビジネス展開を考えることになりました。

次の章では、

  • 東南アジア市場への移行
  • 新たなビジネスの展開
    について詳しくお話しします。

続く…

2006年ー2013年 2016年ー現在 香港法人 |2006-2013 2016-Present Hong Kong incorporated 

香港法人設立の思い出 – 貿易ビジネスの拠点としての活用

私が香港で法人を設立したのは、これまでに2度あります。最初の設立は2006年、そして2度目は2016年。いずれも中国貿易を円滑に進めるための拠点としての役割を果たしてきました。

思い返せば、2006年に初めて香港法人を立ち上げたときは、まさに国際貿易ビジネスの拡大を夢見ていた時期でした。当時、私は上海に住み、日本と中国、そして第三国をつなぐ**三国間貿易(トライアングルトレード)**を手掛けていました。その際に、貿易取引をスムーズにするために香港に法人を設立することを決意したのです。

この香港法人は、中国人の友人と共同で立ち上げた会社でした。当時は、まだ若く勢いもあったため、「とにかくやってみよう!」という意気込みで香港へと飛び、会社を登記しました。香港は、世界有数の自由貿易都市であり、国際的な資金移動の拠点としても非常に便利な場所でした。特に、中国との取引を行う際には、香港を経由することで外貨の送金や決済がスムーズに行えるメリットがありました。

しかし、2016年になると状況が変わってきました。私は、それまでの経験を活かし、完全に独立した形で新たな香港法人を設立することを決断しました。これまでのビジネスモデルをさらに発展させるために、今度は100%外資の法人として、私自身が完全に所有する形で法人を立ち上げました。


香港法人を活用するメリットとは?

当時も今も、香港は国際金融都市であり、自由な資金の流れを持つ都市として世界中の企業が拠点を置いています。私が香港法人を活用している理由は、以下のようなメリットがあるからです。

  1. 中国貿易のゲートウェイ
    • 中国と海外の資金移動には厳しい規制があるため、香港を経由することで資金管理がしやすくなる。
  2. キャピタルゲイン税の非課税
    • 香港では、キャピタルゲインに対する課税がないため、投資や貿易のビジネスモデルが成立しやすい。
  3. 国際送金の利便性
    • 中国本土の銀行では外貨の送金規制があるが、香港の銀行を利用することでスムーズな決済が可能。
  4. オフショア企業としての活用
    • 香港法人をオフショア企業として利用すれば、香港内での売上がなければ法人税が発生しないため、節税効果が期待できる。

香港ビジネスの変化と苦労

近年、香港のビジネス環境は徐々に変化しています。特に2019年以降は、政治的な不安定要因もあり、多くの企業が香港からシンガポールへ移転する動きも見られます。それでも、香港は依然として国際貿易において重要な役割を果たしており、私自身も香港法人を活用し続けています。

しかし、銀行口座の開設や管理が以前よりも厳しくなったのは事実です。特にマネーロンダリング対策の影響で、銀行の審査基準が厳格化し、新規の口座開設には多くの書類や審査が必要になっています。

また、会計監査の要件も強化され、香港法人を維持するためのコストや手続きが増えました。それでも、私は香港の会計事務所と提携し、全ての手続きを外注することで、円滑に運営を続けています。


香港での思い出と今後の展望

香港法人を設立して以来、定期的に香港を訪れる機会がありました。仕事の合間には、香港の活気ある街並みを歩いたり、ローカルの美味しい料理を楽しんだりすることもありました。特に、ビクトリア・ピークからの夜景は何度見ても感動するもので、「この街でビジネスを続けていきたい」と思わせてくれる場所でした。

とはいえ、私は香港に住んでいるわけではなく、香港法人はあくまで貿易拠点として活用しているだけです。そのため、現在も必要に応じて香港を訪れ、銀行口座の管理やビジネス関連の手続きを行っています。

今後も、香港法人を活かしながら、日本と海外の貿易を繋ぐビジネスを展開し続けるつもりです。特に、日本企業の海外進出支援中国・東南アジア市場へのアクセスをサポートする役割を強化していきたいと考えています。


最後に

2006年に**「とにかくやってみよう!」**という思いで始めた香港法人。そこから10年以上が経ち、時代も大きく変わりましたが、香港は今もなお、私にとって重要なビジネス拠点であり続けています。

ビジネスの世界では、環境の変化に適応しながら、最適な選択をし続けることが成功のカギとなります。これからも香港法人を活用し、さらなるビジネスの発展を目指していきます。

今後も、貿易ビジネスや国際取引に関心のある方々に向けて、有益な情報を発信していきたいと思います。香港法人についてや、海外進出を考えている方は、ぜひお気軽にご相談ください!

2012年 福岡2区 国政選挙 衆議院選挙出馬 福岡県福岡市中央区|2012 Fukuoka 2 ward, national election, running for the House of Representatives Chuo-ku, Fukuoka City, Fukuoka Prefecture

2012年 – 衆議院選挙への挑戦と帰国の決断

2012年は、私にとって大きな転機となった年でした。
それまで上海でビジネスを展開していましたが、**「日本で新しい挑戦をするべきではないか」**と考え、衆議院選挙に出馬するために日本へ帰国する決断をしました。


なぜ衆議院選挙に出馬したのか?

私が政治に興味を持ったのは、日本経済の衰退や、国際的な立場の低下を目の当たりにしたからです。

特に、中国でのビジネスを通じて、

  • 日本企業の競争力の低下
  • 海外市場での日本の影響力の減少
    を強く感じていました。

「日本の未来を変えなければならない」

そう考え、私は政治の世界に挑戦することを決意しました。


自民党へのアプローチ –「支部長になれない」壁

最初は、自民党から出馬を希望しました。

自民党の関係者とも話をしましたが、

「支部長になるのは無理」

と門前払いされました。

自民党での出馬が難しいと分かり、他の政党の選択肢を探すことにしました。


民主党系の政党からの出馬決定

当時、民主党が**「国民の生活が第一」**という新党に分裂していました。

偶然にも、民主党側の事務局長が私の友人だったため相談すると、

「党が分裂するから、選挙区に空きが出る。話はできるよ。」

と言われました。

そこで、**「国民の生活が第一」**からの出馬を決意しました。

最終的に、小沢一郎氏の公認を受け、正式に立候補することが決まりました。


選挙区 – 福岡2区での挑戦

私が立候補したのは福岡2区
これは、**福岡市の中心部(中央区・南区・城南区)**を含む都市型の選挙区です。

しかし、私は**福岡出身ではなく、完全な「落下傘候補」**でした。
そのため、地元の人脈もなく、ゼロからのスタートとなりました。


地元の支援者を獲得

そんな中、私は上海でのビジネス時代に取引があった**「福岡シティ銀行」の紹介で、
ある
企業の会長**と知り合いました。

その会長は、

「お前がもし選挙に出るならば応援するよ。」

と言ってくれました。

福岡での選挙戦を戦う上で、数少ない支援者となってくれました。


選挙戦のスタート – 苦労の連続

選挙戦が始まり、一番の問題は人手不足でした。

  • 選挙ポスターの掲示
  • 選挙活動の手配

など、すべてを一から準備する必要がありました。

しかし、地元の支援者の協力もあり、
ポスター貼りなどは比較的スムーズに進めることができました。


選挙活動の裏側 – 公安の監視と調査

選挙期間中、様々な経験をしましたが、
特に印象的だったのは**「公安警察の監視」**でした。

選挙に出ると、

  • 色々な調査員が接触してくる
  • 公安が監視をしている

ということが普通に起こります。

「選挙に出ると、こういう世界があるのか…」

と驚きながらも、貴重な経験になりました。


結果 – 惨敗、しかし得られたもの

2週間の選挙戦の結果は、惨敗でした。

しかし、選挙に出ることで、

  • 政治の裏側を知ることができた
  • 日本の選挙システムを理解できた
  • 多くの新しい人脈を得ることができた

という点では、大きな経験となりました。


選挙後の決断 – 関東への移住

選挙に落選した後、**「もう一度、同じ選挙区で戦うか?」**と考えましたが、

  • 福岡に地盤がなかったこと
  • 政治活動を続けるリソースがなかったこと

などの理由から、一度選挙の世界から離れる決断をしました。

そして、新たなビジネスの展開を求め、関東に移住することを決めました。


次のステップ – 日本での新たな挑戦

日本に帰国し、選挙にも挑戦しましたが、
私は再びビジネスの世界での挑戦を考えるようになりました。

次の章では、関東での新たなビジネス展開について詳しくお話しします。


続く…

2013年ー2014年 苦悩の手術(両目) 東京 横浜|2013-2014 Anguish surgery (both eyes), Yokohama, Tokyo

2013年 – 視力を失った日、そして苦悩の戦い

2013年9月19日、この日を私は一生忘れることができません。
突然、両目の視力を失った日 だからです。

それ以前にも兆候はありました。
2012年12月、選挙が終わった後に片目が出血し、視界の半分が見えなくなったことがありました。
しかし、しばらくすると回復し、普通に生活を続けていました。


突然の視力喪失 – 神奈川県藤沢での出来事

2013年9月19日、その日は朝から目の調子が悪いと感じていました。
しかし、友人との食事の約束があったため、神奈川県藤沢市のファミリーレストランへ向かいました。

食事を終え、帰宅しようとしたその時、突然、両目の視界が真っ暗になりました。

最初は驚きましたが、かろうじて視界の半分がぼんやりと見えていたため、なんとか車を運転し、自宅まで戻ることができました。
しかし、今考えれば、視力がほぼない状態で車を運転するというのは異常なこと でした。

家に到着した頃には、完全に視界がブラックアウト していました。


海老名総合病院 – 医者に見放される

翌日、私は神奈川県海老名市にある海老名総合病院へ向かいました。

診察室に入ると、医師は私の目を一瞥しただけで、

「これは手の施しようがない。」

と言い放ち、わずか1秒で診察室を出て行ってしまいました。

絶望的な気持ちになりましたが、別の大学病院を紹介されることになりました。


横浜の眼科へ – 「野戦病院」のような長蛇の列

妻がインターネットで徹底的に調べた結果、横浜に評判の良い眼科があることがわかりました。
すぐにその病院へ向かいました。

横浜駅前のその眼科には、私と同じように網膜剥離を患った人々が長蛇の列をなしていました。
まるで**「野戦病院」のような状態で、ここで初めて自分の症状の深刻さ**を実感しました。


過酷な治療 – 痛みとの闘い

診察の結果、
「レーザー治療をすれば、手術後の回復が良くなる可能性がある」
と医師に言われました。

私はすぐに両目にレーザー治療を受ける決断をしました。

「バシバシと撃たれるレーザーの痛み…」

これが想像以上に激痛 でした。
しかし、私は視力を取り戻すために耐え続けるしかありません でした。


東京医療センターへ – 緊急手術

横浜の病院での治療が難しいと判断され、東京医療センター(目黒区)への緊急搬送が決まりました。

東京医療センターに到着するや否や、担当医は**「もう時間がない、今すぐ手術だ!」と宣言。
私は
覚悟を決め、手術室に向かいました。**


人生初の手術 – 目の手術の恐怖

これが私にとって人生初の手術 でした。
そして、それが目の手術 というのは、想像を絶する恐怖でした。

目の手術は、単なる外科手術とは異なり、

  • 眼球に直接、麻酔の針を刺す
  • 眼球を切開し、剥がれた網膜を接着する
  • 目の内部を洗浄し、細かい処置を行う

という、繊細かつ恐ろしい手術 でした。


手術後の日々 – 研修医に観察される毎日

手術後の経過観察のため、私は毎日、何十人もの研修医たちの前で診察を受けることになりました。

担当医が診察した後、

「では、次!」

と10人ほどの研修医たちが入れ替わり立ち替わり、私の目を覗き込みました。

「…この生活、いつ終わるんだ…」

と心の中で思いながら、回復を待つ日々が続きました。


視力回復への希望 – 1年半の闘い

手術直後、医師たちは**「完全には治らないかもしれない」** と話していました。

しかし、1年半の治療とリハビリを経て、奇跡的に視力が回復 しました。
現在、矯正視力ではありますが、1.0まで回復 しています。


「車を運転したい」 – 人工レンズの選択

視力が回復してきた頃、医師から**「人工レンズを入れるが、どのタイプがいいか?」** と聞かれました。

私は即答しました。

「遠くが見えるレンズにしてください。車を運転したいから。」

医師は、

「分かりました。遠距離がよく見えるレンズを入れます。」

と言い、手術を行いました。

現在、遠くは裸眼でしっかり見えます が、近くはメガネが必要 です。
しかし、何よりも車の運転ができるようになった ことが、私にとって最大の希望となりました。


失明の恐怖から学んだこと

「人生で一番きつかった経験は?」
と聞かれたら、間違いなくこの時期と答えます。

目が見えないということは、

  • 仕事ができない
  • 家族の顔が見えない
  • 一人では外出できない

という状況になり、
「自分の人生が終わった」とすら思いました。

しかし、医療の力、家族の支え、自分の気力で乗り越え、今こうして普通に生活できていること に心から感謝しています。


新たな決意 – 第二の人生のスタート

視力を失い、そして取り戻した経験を通じて、
「人生は一度きり。悔いのないように生きるべきだ。」
という想いが、さらに強くなりました。

そして私は、新たな挑戦に向けて再び動き出すことを決意 しました。


次の章では、視力回復後の新たなビジネス展開についてお話しします。


続く…

2015年 東京不動産会社 創業(ジャシボ不動産) 東京都港区|2015 Founded Tokyo Real Estate Company (Jasibo Real Estate) Minato-ku, Tokyo

2015年 – 東京での新たな挑戦:不動産ビジネスのスタート

2015年、私は東京で新たなビジネスをスタートさせました。
それが不動産事業 です。

この事業を始めるきっかけとなったのは、妻が「宅地建物取引士(宅建)」の資格試験に合格 したことでした。
そこで、東京都港区赤坂に不動産会社を登記 し、本格的に業務をスタートさせることになりました。


不動産ビジネスを始めた背景

実は、私自身に不動産の経験は全くありませんでした。
しかし、妻の家系が不動産業を営んでいたこと や、2013年に福岡から神奈川県へ移住した際に、
妻の祖父が経営していた不動産管理会社で仕事をしていたこと がきっかけとなり、
この業界に興味を持つようになりました。


「うさぎのマーク」の不動産協会へ加盟

事業をスタートするにあたり、

  • 宅建業の免許を取得
  • 不動産業界の団体「うさぎのマークの不動産協会」に加盟
  • 東京都で正式に不動産会社として登録

という手続きを行い、本格的に不動産ビジネスを開始 しました。

とはいえ、不動産仲介のビジネスは完全な未経験 だったため、

  • 不動産ビジネスに関する専門書を読む
  • 業界の研修に参加する
  • 実際の不動産取引の流れを学ぶ

など、ゼロから勉強しながらのスタート でした。


初めての顧客獲得 – 友人の紹介

ビジネスの基本は 「顧客を獲得すること」 ですが、
最初はどのように集客すればよいのか全く分かりませんでした。

そんな時、上海時代の友人の紹介 で、
物件を借りたいというお客様 を紹介してもらいました。

この一件をきっかけに、徐々に口コミや紹介で顧客が増え、
少しずつ不動産業務の流れを理解できるようになりました。


インターネットを活用した集客戦略

私はIT企業で働いていた経験があったため、
「インターネットを活用すれば顧客を増やせるのでは?」 と考えました。

そこで、

  • 不動産情報を掲載するホームページを自作
  • SNSで情報発信
  • ポータルサイトに広告を出す

という手法を取り、オンライン経由での集客を強化 しました。

その結果、少しずつ問い合わせが増え、物件の売買もできるように なりました。
特に印象的だったのは、2億円を超える一棟マンションの売却 に成功したことです。


東京の不動産市場と外国人投資家の動向

私は海外生活が長かった こともあり、外国人投資家とのつながり がありました。
そこで、日本の不動産に興味を持つ外国人投資家へも物件を紹介するようになりました。

  • 2015年以前:主に中国人投資家からの相談が多かった
  • 2020年以降:中国市場が落ち着き、東南アジアなどの新興国投資家が増加

コロナ前までは、中国からの不動産投資 の相談が頻繁にありましたが、
最近ではアジアの新興国の投資家 からの問い合わせが増えてきています。

また、日本の不動産市場における外国人投資家の参入が増えた ことで、
「東京の不動産は依然として魅力的な投資先である」 ということを実感しています。


事務所の移転 – 赤坂から麻布十番、そして東麻布へ

不動産事業をスタートした当初は、
東京都港区赤坂にオフィスを構えていました。

しかし、ビジネスの拡大に伴い、
途中で麻布十番へ移転。
現在は、東麻布にオフィスを構えて業務を行っています。


東京での不動産ビジネスの展望

不動産業界は、景気や市場動向の影響を受けやすい 業界ですが、
東京という都市の強み を活かせば、
今後も十分にビジネスを展開できると考えています。

また、

  • 「東京の不動産市場の変化」
  • 「外国人投資家のニーズ」
  • 「インターネットを活用した新たな販売手法」

などを常に研究しながら、さらなる成長を目指していきたい と思っています。


今後の展望

今後は、

  • 不動産仲介だけでなく、不動産投資や開発にも携わる
  • 海外投資家向けのサービスを拡充する
  • 日本国内の投資家向けに不動産市場の情報発信を行う

など、新たなチャレンジを続けていく予定 です。


次の章では、2016年以降のビジネスの発展と新たな取り組みについてお話しします。


続く…

2016年ー現在 日本法人設立ー中国、香港も併せて新設する (株)ジャシボマーケティング 香港JCBO  Limited 東京都|2016 - Present Establishment of a new Japanese subsidiary, together with China and Hong Kong JCBO Marketing Hong Kong JCBO Limited Tokyo, Japan

2016年 – 日本での再挑戦:建築資材貿易事業の展開

2016年、私は再び日本で事業を展開することを決意し、貿易商社として法人を設立 しました。
主に中国からの建築資材の輸入を行う貿易事業 を中心に活動を開始しました。


なぜ貿易事業を選んだのか?

上海時代に、私は中国の工場と日本の企業をつなぐ 「貿易コンサルティング」 を行っていました。
その経験を活かし、日本国内の建築資材市場 に目を向けました。

  • 日本の建築資材は高コストである
  • 中国の工場で発注すれば、コストを大幅に抑えられる
  • 輸入・販売を行うことで日本の建築業界に貢献できる

このような背景から、中国で建築資材を発注し、日本の建築現場に供給するビジネス を開始しました。


なぜ足立区で起業したのか?

東京での創業場所を考えていた際、意外にも 「足立区が創業支援に力を入れている」 ことに気づきました。
さらに、足立区には建築関連の業者が多く、事業の展開に適した環境 であることが分かりました。

そこで、足立区の「創業支援制度」 を活用し、正式に法人を設立しました。

最初のオフィスは、足立区の公的なインキュベーション施設「かがやき」 にある事務所を借り、ビジネスをスタートさせました。


事業内容 – 建築資材の輸入・販売

具体的には、以下のような事業を展開しました。

  1. 中国で建築資材を発注
  2. コンテナ輸送にて日本へ輸入
  3. 日本の建築現場に納品

このビジネスモデルは、上海時代の貿易業務の延長線上 にありました。
そのため、中国の工場ネットワークを活用し、スムーズに事業を進めることができました。


顧客の獲得 – 既存のネットワークとインターネットの活用

新規顧客を獲得するため、インターネットを活用 し、

  • 自社のホームページを作成
  • SNSやオンライン広告を活用
  • ポータルサイトに情報を掲載

といった戦略を取りました。

また、これまでのネットワークを活かし、既存の取引先(店舗経営者など) からも仕事を受注しました。
結果として、小規模ながらも安定した貿易事業を運営することができるようになりました。


海外展開 – 香港・中国現地法人の設立

事業の拡大に伴い、香港と中国本土に現地法人 を設立しました。

  • 香港法人 :国際貿易の拠点としての機能
  • 中国法人 :現地工場との調整、製品管理

しかし、2020年以降の コロナ禍の影響 により、海外事業の展開が一時的に停滞しました。


コロナ禍での影響と今後の展望

コロナによる影響で、

  • 中国との物流が停滞
  • 建築資材の調達が困難に
  • 現地法人の運営がスムーズに進まない

といった課題が発生しました。

しかし、2023年には香港へ渡航し、銀行手続きなどを整理 し、
再び事業を展開できる準備を整えました。

現在、貿易事業の再構築を進めつつ、新たな市場開拓にも挑戦 しています。


まとめ – 日本での新たな事業展開

  • 2016年、日本で貿易商社を設立
  • 中国の建築資材を輸入・販売
  • 足立区の創業支援制度を活用
  • 既存のネットワークとインターネットを活用し顧客獲得
  • 香港・中国に現地法人を設立し、グローバル展開
  • コロナの影響で事業が一時停滞するも、現在再構築中

今後は、

  • 日本国内の不動産・建築業界との連携強化
  • 海外との貿易ネットワークの再構築
  • 新興国市場への展開

など、新たなビジネスの可能性を模索しながら、さらなる成長を目指していきます。


次の章では、2020年以降のコロナ禍での挑戦と、今後の展開についてお話しします。


続く…

2022年ー現在 スリランカ 文部省 職業訓練庁 特命大使 スリランカ コロンボ|2022-Present Ambassador-at-Large, Vocational Training Agency, Ministry of Education, Colombo, Sri Lanka

2020年 – 国際ビジネスとスリランカとの関わり

2020年は、私にとって 新たな国際ビジネスの可能性を模索する年 となりました。
インターネットを駆使しながら、世界情勢や国際金融についての調査を進め、さまざまなネットワークを構築していきました。

その中で、スリランカとの関係が大きく発展 しました。


スリランカとの出会い – 文部省職業訓練庁の長官とのつながり

ある知人の紹介で、スリランカ政府の文部省「職業訓練庁(Vocational Training Authority, VTA)」の長官 となった人物と知り合いました。

彼からの依頼は、

  • スリランカと日本の関係を深めたい
  • スリランカの人材を日本の企業で働けるようにしたい
  • 日本企業の進出を促し、スリランカ国内での雇用を増やしたい

といったものでした。

この依頼を受け、スリランカ政府の「職業訓練庁・特命大使」 という資格を与えられ、スリランカと日本の架け橋としての役割を担うことになりました。


スリランカの現状 – 財政破綻と経済危機

スリランカは 2022年に国家財政破綻 を宣言し、
深刻な経済危機に陥っています。

スリランカの主要な問題点

  1. 国家財政の破綻
    • 外貨不足により、燃料・医薬品・食料の輸入が困難
    • 国際通貨基金(IMF)の支援を受けながら経済再建中
  2. 若者の就職難
    • 国内産業の発展が遅れており、雇用機会が限られている
    • 多くの若者が海外(中東・欧米)へ出稼ぎに行く
  3. 日本との関係
    • 親日国として長年の友好関係を維持
    • 日本からのODA(政府開発援助)や民間投資への期待が大きい

スリランカの人材と日本企業のマッチング

スリランカでは、日本で働きたいという人材が一定数いる ものの、
最近の若者は「地元で働きたい」と考える人が増えてきています。

そのため、

  • スリランカ国内に日本企業の工場を誘致し、現地雇用を創出
  • 技術研修プログラムを通じて、日本企業との連携を強化
  • 日本企業がスリランカの若者を受け入れ、技能実習制度を活用

といった 「現地雇用」と「海外就労」の両面からのアプローチ が求められています。


今後の展望 – スリランカビジネスの可能性

スリランカは、親日国でありながら、日本企業の進出が遅れている市場 でもあります。
今後の展開として、以下のようなビジネスの可能性が考えられます。

  1. 日本企業向けの進出サポート
    • スリランカの工業団地への企業誘致
    • 日本企業の現地法人設立支援
  2. スリランカ人材の日本企業へのマッチング
    • 日本国内の企業とスリランカの職業訓練機関をつなぐ
    • 技能実習生・特定技能制度を活用した人材送り出し
  3. 貿易事業の拡大
    • スリランカの特産品(紅茶・スパイスなど)の日本市場への輸出
    • 日本の技術を活かしたスリランカ向け製品の供給

まとめ – スリランカと日本の未来をつなぐ架け橋へ

  • スリランカ政府の「職業訓練庁・特命大使」に就任
  • スリランカの若者の雇用創出を支援
  • 日本企業の進出を促し、スリランカ経済の発展に貢献
  • スリランカとの貿易・人材交流を強化

今後も、スリランカと日本の関係強化を目指し、さまざまなビジネスの可能性を探っていきます。


次の章では、2023年以降の展開と新たなビジネスチャンスについてお話しします。


続く…

2007年 通貨発行権とので出会い 上海、インド、オランダ|2007 Encounters with Currency Issuance Rights in Shanghai, India and the Netherlands

通貨発行権への関心の原点 – マハリシとの出会い

私が通貨発行権に関心を持つようになったきっかけは、2007年にインドのヨガ指導者マハリシ・マヘーシュ・ヨーギー(Maharishi Mahesh Yogi)からの伝言 でした。

当時、私は中国進出を希望するTM瞑想(Transcendental Meditation, 超越瞑想)関連の企業のコンサルティング を担当していました。

その際、マハリシ先生から 「通貨発行について研究しなさい。そして貿易についても行いなさい。」 という予言的なメッセージを受けました。


マハリシとの直接の会話

マハリシ先生は、ビートルズにTM瞑想を指導 したことで世界的に知られた人物ですが、
そのマハリシ先生が 上海の私のオフィスに直接電話をかけてきた のです。

そこでいくつかの打ち合わせを行いましたが、その中で彼は私に次のように語りました。

  • 「瞑想を広めなさい。」 → これは理解できました。
  • 「通貨発行について研究しなさい。」 → これが非常に興味深い言葉でした。

瞑想を普及させることはTMの理念として理解できますが、なぜ通貨発行なのか?
その時はよく分かりませんでしたが、先生の言葉が引っかかり、そこから 金融・国際経済の研究を始めるきっかけ になりました。


通貨発行権の研究と国際金融への道

マハリシ先生との会話の約半年後、彼はこの世を去りました。
しかし、彼の言葉は私の中で生き続け、その後15年間にわたり 国際金融・通貨発行権についての探究 を続けることになりました。

現在は、

  • ODA開発援助事業
  • 国際非営利財団との連携
  • 世界各国への資金提供プロジェクト

など、グローバルな金融システムの変革 に関わる仕事をしています。

この道を進むことになったのも、マハリシ先生からの「通貨発行について研究しなさい」という言葉があったから だと思います。


見えない世界のつながり – インスピレーションと直感

この出来事を振り返ると、何か見えない世界のつながり を感じずにはいられません。
まるで 以心伝心 のように、必要な言葉が必要な時に与えられたような感覚です。

今、私が関わっているプロジェクトが 国際金融の仕組みを変える可能性を秘めている ことを考えると、
15年前にマハリシ先生が言った言葉の意味が、今になって理解できるような気がしています。

これは インスピレーションの世界 なのかもしれません。


次の章では、通貨発行権の研究を通じて得た洞察と、現在の国際金融システムにおける課題についてお話しします。


続く…

2005年中国ビジネス 法然上人の夢枕 日中架け橋の予言 和歌山ー上海|2005 Business in China: The Dream Pillow of Honen Shonin: Prophecy of a Bridge between Japan and China Wakayama-Shanghai

日中の架け橋の予言 – 法然上人の導き

2005年頃、私は上海での仕事の合間に一時帰国し、日本で不思議な体験をしました。
それは、ある意味で**「日中の架け橋」となる運命を予言されていたかのような出来事** でした。


神戸の社長の紹介で出会った祈祷師

当時、上海で知り合った神戸出身の日本人社長 から、
定期的にマッサージをしてくれる霊能力者の祈祷師 がいる」と聞かされました。

興味を持った私は、その祈祷師のおばちゃんに会いに行きました。

すると彼女は、開口一番、こう言いました。

「あなたの家の北側にある何かがあなたを呼んでいる。」

私はピンときました。
私の実家の北側には、うちの家系のお墓があります。

「お墓が呼んでる? もしかして、ご先祖様が何か伝えようとしているのか…?」
そう思いながら、その後、和歌山の実家に戻りました。


実家で起こった奇妙な出来事

実家に帰り、仏壇の前で手を合わせた瞬間、何かがパッと通り過ぎる感覚 がありました。

その時、心の中でこう思いました。

「左の仏像の人が来ましたね。」

そしてその直後、父が話しかけてきました。

「法然寺の話を知ってるか?」

私は父に、「今、仏壇を見ていたら 左側の仏像がここに来た って感じがする」と伝えました。

すると、父が驚いた顔でこう言いました。

「その仏像は、法然上人だ。」

実は当時、和歌山県の教育委員会で
「海南市にある法然寺に、法然上人が本当に来たのか?」 という歴史的な検証が行われていたそうです。

そして、法然寺の住職から、私の父(和歌山県立図書館の館長)に「古文書を調べてほしい」 と依頼が来ていたのです。

父が図書館の古文書を調べたところ、
なんと 法然上人が実際に海南市の法然寺を建立したことを証明する文章が発見 されました。

これには、私も驚きを隠せませんでした。


夢の中に現れた法然上人

その夜、私は不思議な夢を見ました。

そこに、法然上人が現れたのです。

彼は私にこう語りかけました。

「私は南無阿弥陀仏を学びましたが、中国に行ったことがなかった。」
「だから、あなたに行ってもらいました。」

さらに、こう続けました。

「南無阿弥陀仏を唱えて、日中の平和を祈ってください。」

私は驚きながらも、「私も中国に長く滞在したいけど、お金がなければ厳しいです」と言いました。

すると、法然上人は微笑みながら 「分かりました。」 と答え、夢から消えました。


翌日、船井総研からの突然の連絡

夢の翌日、船井総研(Funai Consulting) という日本の大手コンサルティング会社から突然連絡がありました。

「上海で法人を設立したいが、美容室の営業許可がなかなか降りない ので助けてほしい」という相談でした。

実は、私は大学時代の友人を通じて上海の工商局の局長とつながりがあった ため、そのルートを活用すれば簡単に解決できることが分かりました。

結果、通常は長期間かかる手続きが わずか2週間で営業許可が取得 できました。

これをきっかけに、中国でのコンサルティング事業を本格的に始める ことになったのです。


中国での正式な企業登記代理の資格取得

さらに、上海の工商管理局 から、
企業登記代理 の正式な資格を取得してください」とアドバイスを受けました。

その結果、私は上海市の公式な許可を得て、正式に企業登記コンサルティングを提供できるように なりました。


法然上人の導きと、日中の架け橋

思い返せば、この一連の流れは、まるで 法然上人の導き によって決まっていたかのようでした。

私はこの出来事をきっかけに 「南無阿弥陀仏」の起源 について興味を持ち、
そのルーツを求めて、中国の山奥にある寺院まで旅をしました。

そこは山西省の大気汚染がひどい地域にある、険しい山の上の寺院 でした。
しかし、そこで私は確かに感じました。

「ここから南無阿弥陀仏が始まったのか…」

感無量でした。


結論:見えない世界のつながり

この出来事を振り返ると、

  • 祈祷師の言葉
  • 実家での体験
  • 夢に現れた法然上人
  • 突然の船井総研からの依頼
  • そして中国でのコンサルティング事業の成功

これらが すべて一本の線でつながっていた ことが分かります。

ある意味、これは 「日中の架け橋」になることが運命づけられていたのではないか と思うのです。

この世には、目に見えない導き が確かに存在するのかもしれません。


次回の話:南無阿弥陀仏の探究と、その後の中国での事業展開について。


続く…

2002年ー2013年 日本と中国の精神世界、パワースポット巡り 中国と日本|2002-2013 Tour of Spiritual Worlds and Power Spots in Japan and China China China and Japan

日中のパワースポット巡り – 仏教とエネルギーの交差点

私はかつて、仏教や仏像の世界に強く関心を持っていた時期がありました。
日本の多くの仏教僧が修行のために中国へ渡った 歴史を知り、私自身も長年中国で暮らしていた こともあり、時間があれば日本の僧侶が修行した中国の寺院を巡る旅 をしていました。

また、中国には仏教の秘境や「四大仏教名山」 と呼ばれる霊山があり、それらも訪れました。
こうした場所は 「気場(チーバ)」と呼ばれるエネルギースポット であると実感しました。


仏教とパワースポットの関係

パワースポットと呼ばれる場所の多くは、山岳地帯や岩山 にあります。
古代から、仏教の修行の場はこうした 「気」が集まる場所 に築かれました。

このため、私は 「岩山は天然のパワースポット、パワーストーンなのではないか?」 と考えるようになりました。

中国の歴史的なパワースポットの中でも、特に印象的だった場所を紹介します。


① 山東省・泰山(たいざん) – 皇帝のエネルギーが宿る山

中国五岳の一つであり、歴代皇帝が即位式を行った聖なる山 です。
泰山は標高1,545メートル、長い歴史を持ち、秦の始皇帝や漢の武帝が訪れた ことでも有名です。

私も何度か訪れましたが、確かに 「皇帝のパワー」 を感じるような雰囲気がありました。

特に興味深かったのは、「北極星」と皇帝の関係 です。
中国の皇帝は天命を受ける存在であり、紫禁城(故宮)は北極星を向くように設計されている ことを知りました。

つまり、泰山に登ることは、宇宙のエネルギーと皇帝の力をつなげる儀式 だったのかもしれません。


② 浙江省・国清寺(こくせいじ) – 日本仏教の源流

日本に仏教を伝えた**「鑑真(がんじん)」や「道元(どうげん)」** が修行した寺として有名です。

この寺には何度か泊まりましたが、毎回不思議な夢 を見ました。
夢の中には必ず お坊さん が登場し、何かを語りかけてきます。

この寺に泊まると、まるで過去の僧侶たちとつながるような気持ちになります。


③ 山西省・五台山(ごだいさん) – 文殊菩薩の聖地

中国四大仏教名山の一つであり、文殊菩薩(もんじゅぼさつ)の霊場 です。
仏教の経典には、「五台山は、インドの霊鷲山に匹敵する聖地」 と記されています。

五台山は標高が高く、霧に包まれることが多いため、
訪れた際には、まるで 別次元にいるような神秘的な感覚 になりました。

また、チベット仏教とも関係が深く、ダライ・ラマも訪れた ことがある場所です。


④ 日本のパワースポット巡り – 中国との共通点を探る

こうした中国のパワースポットを巡るうちに、私は 「日本にも同じような場所があるのではないか?」 と思い、日本国内の寺院や霊山も探索するようになりました。

✓ 高野山(和歌山県) – 日本の密教の聖地

空海が開いた高野山は、日本の仏教における最重要パワースポットの一つです。
訪れた時に感じたのは、非常に澄んだ空気と、時間が止まったような静寂 でした。

高野山と中国の仏教との関係も深く、唐の時代の影響を強く受けている ことが分かります。

✓ 比叡山(滋賀県) – 日本仏教の中心地

最澄が開いた天台宗の総本山で、日本の僧侶の多くがここで修行しました。
特に中国・国清寺と関係が深く、国清寺で修行した日本の僧が比叡山を開いた という話もあります。

✓ 富士山 – 日本最大のパワースポット

富士山は仏教以前の**「山岳信仰」** においても聖なる山とされていました。
実際に登ってみると、他の山とは違う特別なエネルギーを感じます。

こうした山岳信仰は、中国の泰山や五台山と似た特徴 を持っていると感じました。


パワースポット巡りで得たもの

仏教の修行僧たちは、何百年も前からこうした**「エネルギーの集まる場所」** を知っていました。
私もそれを実際に訪れることで、「なぜそこが特別なのか」 を肌で感じることができました。

この経験を通じて、私は以下のことを学びました。

  1. パワースポットは、単なる観光地ではない
    → そこには 「歴史・宗教・エネルギー」 が交差する深い意味がある。
  2. 古代の人々は「気場(チーバ)」を知っていた
    → だからこそ、仏教の聖地は 岩山や山岳地帯 に多く存在する。
  3. 日本と中国の仏教は、驚くほど深いつながりがある
    → 日本の仏教のルーツを知るためには、中国の寺院を巡ることも重要。
  4. パワースポットには「呼ばれるタイミング」がある
    → 訪れるべき時に、自然と導かれるような感覚を何度も経験した。

まとめ – 旅を通じて見えてきたこと

私はかつて、こうした仏教的な世界 に魅了され、多くのパワースポットを巡りました。

そして、そこには単なる観光地以上の「何か」 が存在することを実感しました。

現在は、以前のように頻繁に巡ることはなくなりましたが、
こうした体験は 私自身の人生観や価値観を形成する大きな要素 になっています。


次回の話:南無阿弥陀仏の起源と、中国でのさらなる探索について。


続く…